ナザレの謎(6)山の上にある町は隠れることができない。
マタイ5:14
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
西暦67年にローマ軍によって完全に破壊されるまでは、ガムラはガリラヤ湖北東に位置するゴラン地方の主要都市であり、約8km離れた湖畔に面した漁村ベツサイダを港町とし、オリーブオイルの生産・商業などで経済的にも栄えていた。フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ戦記』の中でガムラのことを記録しているし、タルムードにもその名が記述されている程である。またローマ軍の破壊の対象にもなったという事実こそ、商業的理由だけではなく、政治的・軍事的にも非常に重要な町であったことを証明している。
しかしそれ程重要な町であったにも関わらず、新約聖書にその名は全く残されていない。ベツサイダを始め、ガリラヤ湖北西部の町々(コラジン、カぺルナウム、ゲネサレ)、そしてガリラヤ湖の東部であり、ガムラのすぐ南にあるゲラゲサの名も記述されているにも関わらず、である。
特にベツサイダ、コラジン、カぺルナウムの三つの町は、イエス・キリストが他のどの町よりも多くの奇蹟を働かれた町として列挙されている。
マタイ11:20-24
20 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
22 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
23 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
24 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
これはイエス・キリストが地上宣教において、ガラリヤ湖北部を活動の中心としていたことも暗示している。そしてガムラはベツサイダから約8kmしか離れていないのである!
しかし冒頭で引用した聖句が語っているように、「山の上にある町は隠れることができない」のである。勿論、この聖句は世の光としての信仰者の証しについて語っている。ただ、たとえ福音書がその名を明記していなくとも、福音書の中に浮かび上がっているこのガムラという町の特殊な存在を見事に言い表している。
ガムラの数々の特徴を列挙してみよう。
- ガリラヤ湖から約8kmしか離れていない。当時は徒歩で移動していたことを考えても、一日で十分に往復できる距離である。反対に現在のナザレの町は、ガリラヤ湖から約32kmも離れており、しかも600m近い標高差がある。とても気軽に徒歩で行こうと思う距離ではない。福音書の中ではよく、イエス・キリストが湖畔へ「下って行き」、彼の御言葉を聞くために群衆も従っていったことが書いてある。
マタイ4:25;5:1
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
4:25と5:1は章で区切られているが、一連の内容である。「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから」ということは、イエス・キリストがこれらの地方以外の所、特にガリラヤではない所にいたことを暗示している。そして「山」(冠詞がついている)に登り、有名な山上の垂訓を群衆に向かって語った。その垂訓の中で、冒頭の聖句「山の上にある町は隠れることができない。」と語っているのは、大変意味深い。
そして教えを語り終えると、「山」を降り、群衆もついてきた。その時、一人のらい病人の癒しを行っている。(ここでの7章の終わりと8章の始まりは繋がっている。)
マタイ7:28,29;8:1,2
イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
ルカによる福音書はその癒しの奇蹟が「ある町」で行われたと啓示している。
ルカ5:12
イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
そしてマルコによる福音書は、癒されたらい病人が奇蹟について言い広めたので、イエスがその「町」に表だって入ることができず、「外の寂しい所」にいたと書いてある。そして数日後、イエスは湖畔の町カぺナウムに「帰った」とあるので、山上の垂訓の「山」の近くの「ある町」は、カぺナウムではないことが判る。(この個所も同様に、1章の終わりと2章の始まりは、数日のタイムラグはあるにしても一連の文脈である。)
マルコ1:45;2:1
しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
私は福音書記者があえて名前を伏せて「ある町」と表現している町が、ガムラではないかと考えている。
- シナゴーグがあった。
マルコ6:1,2a
1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
2a そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。
- しかもそのシナゴーグの直ぐ近くには、切り立つような崖があった。これはルカによる福音書の記述と一致する。
(写真の中央部にある遺跡が、一世紀のシナゴーグのものである。城壁に沿って急な坂を上っていくと見張り塔があり、その先は峰に沿って山の方に行くほど急な崖となっている。)
ルカ4:16;28-29
16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
28 会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、
29 立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした。
上の写真は、一枚目の写真のちょうど反対側、ガムラの山を西側から撮った写真である。山稜に沿って町の北側に階段状の地形が見えるが、その崖の部分からイエス・キリストを突き落とそうとした可能性もある。西暦66年にローマ軍の攻撃に備えて建てられたシナゴーグの前の城壁は、イエス・キリストの時代には存在していなかったはずで、シナゴーグから町の反対方向へ道に沿って崖の所まで引っ張って行かれたことも考えられる。
ガムラの町の崖とは対照的に、現代のナザレにおいて人々がイエス・キリストを突き落とそうとした崖とされている場所は、西暦一世紀にあったとされている町の場所から、徒歩で一時間近くかかる場所にあるのである!!!
そして何よりその距離が、ナザレの町がルカの福音書に書かれているのとは違い、山の上に建てられた町でないことを証明しているのである。
(7)へ続く