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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

世界福音同盟の代表団が教皇フランシスコと会合(3)

現代福音宣教の問題点 終わりの日の警告 カトリック教会関連

 1999年10月31日、ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟との間で、『義認の教理に関する共同宣言』がドイツのアウグスブルグで調印された。この10月31日という日付は、1517年に宗教改革者マルティン・ルターが、ラテン語で書かれた『九十五ヶ条の論題』をヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示した日付と同じであった。

 この共同宣言は、教文館より和訳が出版されている。その中には明確に「分裂を克服するためには、義認に関する共通理解が根本的かつ不可欠である」(二 エキュメニカルな問題としての義認の教理 13 31ページ)とあり、「基本的諸真理における合意を含んでおり、それは個々の所説における異なった説明と矛盾しない」(同 14)とある。しかし、カトリック側の理解を「人間はみ言葉を聴く者として、またそれを信じる者として、洗礼を通して義とされる」とまとめているのに対して、ルーテル側の理解を「神は信仰においてのみ(Sola fide)罪人を義とする」としている。確かに新約聖書には、洗礼を義認の仲介手段とはみなしておらず、罪人の義認の必要不可欠な要素とも教えていない。

ルカ18:9-14

9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。

10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。

11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。

14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 

ローマ10:9,10

9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

 イエス・キリストが、罪の報酬である死を、十字架の上で私たちの代わりに「支払って下さった」。神はその代償行為によって、その行為を信じる者の罪の責任を問わない、と宣告したのである。洗礼は義認の手段ではなく、「信仰のみ」がその手段である。ルターはその福音の真理を告白し、それを否定することを拒否したがゆえにカトリック教会から破門を受けたのである。

 それなのに『義認の教理に関する共同宣言』は、以下のように宣言をしている。

「われわれは共にこう告白する。洗礼において聖霊は人をキリストに結びつけ、義とし、その人を真に新しくする」(四・4 義とされた者が罪人であること 28)。

 この宣言書の中で、信仰義認という真理を中心に不安定に揺れ動いているのは、ルーテル側の意見であり、カトリック教会の見解ではない。実際、ルターの教えを公式に否定し破門宣告したトリエント公会議において制定されたカトリックの義認に関する教えは、『義認の教理に関する共同宣言』の調印から2ヶ月も経たないうちに、西暦2000年の『大聖年』の際に全世界的に伝えられ、「行いによる罪の赦し」つまり告解や聖体などの秘跡の遂行を条件とした『贖宥』が、公に宣言され人々に勧告されたのである。(Il dono dell'indulgenza, 29 Gennaio 2000

 

(4)へ続く