an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

コピペ説教

レタスにヘアドライヤーをあてられますか。 - an east windowの記事においてもすでに書いたが、今回改めて読者の方々に対して私の疑問を共有させて頂きたい。

 「一人の説教者が第三者の説教をそっくりそのままコピーし、聴衆にはそのオリジナルのことを明かさずに、あたかも自分の説教のように語ることは、倫理的にまた知的に受け入れられるだろうか」。

 オリジナルのことを知らないで聞いた聴衆が受ける「祝福」は、コピーしていることを知ってしまった聴衆の一部の躓きを、取るに足らないものとするのだろうか。

 勿論、著作権や知的財産というコンセプトを福音宣教に適用するのは、意味のないことだろう。だからといって、社会的・職業的通念では処罰の対象にもなる行為に対して、教会内では許容または黙認されることに強く危機感を感じる。

 そもそも牧師や伝道師だけに限らず「一人の信仰者が神の御言葉を語る」とはどういうことか、その根源的なところに光を当てる問いかけではないだろうか。