詩篇119:69,78(新改訳)
69
高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
78
どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。
彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。
しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。
あるテーマについて理性的で建設的な話ができない場合、大概は論点のブレや挿げ替えが無意識的に、もしくは意識的に行われている。多くの場合、冷静さを失い、感情的になり、論点とは直接関連性のない個人の性格に対する攻撃や、一部の事例を根拠に一般論化が行われる。夫婦喧嘩からインターネットにおける中傷、教会内の争い、神学論争にさえも共通する現象である。
ここでは自負心が決定的な要素である。適切な構造の中で、適切にコントロールされた発火は、ガソリンに動力と生産性を与えるが、管理されていない発火は同じ液体を凶器に変えてしまう。「管理されていない」自負心は、簡単に悪意を帯び、意図的な他人への悪口や中傷、そしりと変わる。
冒頭に引用した詩篇の記者は、「高ぶる者ども」によって、「偽りで塗り固められ」「偽りごとをもって曲げられる」苦い経験を味わっていた。しかしこの神の僕は、裁きを神に委ね、神の戒め、つまり神の御言葉の中に自分の心と思いを避難させることによって、彼自身が「高ぶる者」となる危険から身を守ったのである。
聖霊の力と導きによってコリントで宣教したパウロは、多くの異邦人を救いに導いた。しかし「モーセの律法を守らなければ救われない」と教えていたユダヤ人教師たちに誑かされた信徒たちは、パウロを批判し中傷していた。詩篇記者の表現を借りるなら、使徒パウロはコリント教会の高ぶったクリスチャンによって、「偽りで塗り固められ」「偽りごとをもって曲げられ」ていたのである。
しかしパウロを詩篇記者と同様、裁き主なる神に全てを委ね、自分の委ねられた神の奥義、キリストの福音に忠実であることだけに意識を集中していたのである。
Ⅰコリント4:1-5
1 このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。
2 この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
3 わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。
4 わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
「わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。」
これは、キリストの十字架による罪の赦しの福音と神の義を深く知り、それに生きている魂にだけ与えられる「管理された自負心」であり、「健全な良心」である。