an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

判断を委ねる心(1)

ヨハネ5:30-30

30 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。

31 もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。

32 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。 

 全ての裁きを行う権威を父なる神から与えられていた御子イエス・キリスト(ヨハネ5:22)が、「自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである」といって、主観に基づいた裁きを行うことを拒否している。聖霊に満たされ、聖霊がその上に留まっていた御子なら、自分の知恵と権威を用いて裁きを執行するのに間違いを犯すことはなかったはずである。

 彼が自分の判断に自信がなくて、責任放棄しているのではない。「そして、わたしのこのさばきは正しい」という宣言からも理解できる。御子イエスは地上の生涯において、ただ父なる神とその言葉へ栄光を帰すことだけを求めていたからである。

ヨハネ5:41-44

41 わたしは人からの誉を受けることはしない。

42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。

43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。

44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。 

ヨハネ7:16-18

16 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。

17 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。 

 信仰者には自由が与えられている。しかしキリストに生きる者は、こと霊的な分野や魂の救いに関わる問題において、自分の感覚や主観性に頼ることを恐れる。それはまず第一に「自分の罪深さ」や「自分の善悪の判断が頼りないこと」を経験的にも知っているからであり、そして何よりも「神の御言葉の完全さ」を聖霊の啓示によって経験しているからである。

詩篇19:7-14

7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、

主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、

主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、

主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、

また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。

これらを守れば、大いなる報いがある。

12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。

どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。

13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、

これに支配されることのないようにしてください。

そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、

大いなるとがを免れることができるでしょう。

14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、

どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。

 霊的な分野において、祈りの中で自分の判断を主なる神に委ね、御言葉の光を求めることは、決して弱さではない。聖霊によって与えられる「イエス・キリストの力」である。