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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

遍在する神との交わりの質

聖別(キリストとの交わり) 聖書による検証

マタイ18:20

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 この聖句は、多くの場合、文脈から完全に切り離されて引用され、「イエス・キリストが礼拝を捧げている私達と共にいる」という言葉によって、神がまるで私達の現状や働きの全てを是認しているかのような、誤解を生む方向に使われる。

 しかし霊である神が存在しない空間というのはあり得ない以上、問題となるのは「神の遍在性」そのものよりも、「遍在する神との交わりの質」である。人間関係、特に夫婦関係においてもそうであるように、「すぐ近くにいること」「いつも近くにいること」と「心が通じ、一つになっていること」は、同じであるとは限らないからである。

黙示録3:14-20

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 

 「キリストの花嫁」として、また「キリストの体」として、小アジア(現在のトルコ)のラオデキアの町で集まっていた信仰者達は、自己欺瞞によってキリストの主権から遠く離れてしまっていた。彼らの主人たるキリストが、「戸の外に立って扉を叩いていた」のである。

 確かに彼らとキリストを隔てていたものは、たった「扉一枚」でしかなかった。しかし彼らは「キリストの声を聞き、立ち上がり、戸を開ける」必要があったのである。彼らは自己欺瞞の儚い喜びの中にそのまま留まるという選択をすることもできたし、キリストと食を共にするという霊的喜びを再び味わう選択することもできた。

 キリストは、彼らの合意なしに無理矢理、彼らの自己満足の世界に介入することもできただろう。しかし彼は扉の外に立って、中から彼らが扉を開けること待った。

 「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」。この全能の神にしては驚く程控えめな態度に、人間の選択の自由に対する神の配慮と、そして何より「全ての人間の近くに絶えずおられ、語りかけてくださる神の声に聞き従う」という私達人間の大きな責任が啓示されている。

へブル4:11-16

11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。

12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。

15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 

 主なる神は、罪を犯し神の前で裸であることを知り、いちじくの腰巻を造ったアダムとエバに、一匹の動物を犠牲にして皮の衣を代わりに与えた。その衣によって、彼らは神の前から隠れなければならないという罪意識からとりあえず解放されたのである。(勿論、その解放は部分的でしかなかったが、神自身が人間との交わりを保つために備えてくださったのである)

 同様に私達が、全てを知り全てを見通す神の御座に近づき、魂の安息を得ることができるように、御子イエスによる罪の赦しという「義の衣」を神自身が用意してくださった。それは、ただ神の恵みによる。

 それだからこそ、私達には自らの意志によって「その恵みの御座に近づく責任」と、「神の安息に入るように努める責任」が残されているのである。

 

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