an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

主イエス・キリストにある喜び

ピリピ4:4-7

4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。

6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 

 この聖句において使徒パウロが語っている「喜び」とは、この聖句を使う「霊的な」誰かから激励を受け、ひきつった笑顔で日曜日を過ごすことでは決してない。「主イエス・キリストにあって」と特記されているように、祈りの時を通ったものであり、「人知では測り知ることができない神の平安」から生まれ、キリストによって守られた心と思いに宿る。それは心の虚無を覆い隠すための人工的な喜びではなく、本質的でキリストの命から静かに、そして強く湧き出る喜びである。

 興味深い点は、パウロが「あなたがた喜びを、みんなの人に示しなさい」とは書かず、「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」と書いたことである。傷つき、心身ともに疲れ切り、苦しみの中で助けを求めている魂に、無理に笑顔を作って「主にあって喜びなさい」と強要することではない。罪人の自分がキリストの恵みによってそのまま神に受け入れられているように、傷ついた魂をそのまま受け入れ、ただ傍にいて、その魂が主の愛の中に希望を見出せますように、と心の中で祈ることに霊的な喜びを見出せない人は、「主イエス・キリストの喜び」が何であるか理解していないのかもしれない。実際、寛容で柔和な心は、パウロが語る「霊的な喜び」に非常に近いものである。真の喜びも寛容も柔和も、全て神の御霊によってもたらされる御霊の実だからである。

ガラテヤ5:22,23

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 

 

関連記事:

泣く者と共に泣きなさい - an east window