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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ゴルゴタの丘において―ユダヤ人と百卒長

神の愛 十字架の言

マルコ15:33-39

33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。

34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。

36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。

37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。

38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。

  このゴルゴタの丘における場面において、ひとつの意味深い対比が啓示されている。十字架にかけられたイエスの傍に立っていた人々と、死刑が滞りなく執行されるのを警備する任務のために、同じくイエスに向かって立っていた百卒長の対比である。ローマ帝国の軍隊に属し、ユダヤ人にとっては異邦人であった百卒長が、イエスの息をひきとる様子を見て、神を崇めたのに対して、本来真の神を知っているはずのユダヤ人たちは、預言者エリヤが奇蹟的に顕れ、イエスを十字架の呪われた死から救いだすかもしれないと興味本位に待っていたのである。しかもその奇蹟への期待は、イエスが十字架の上で叫んだ言葉「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」を自分勝手に解釈をしたものに過ぎなかった。

 逆に百卒長は、自分の目の前でおきていることを「そのまま」受け止め、「そのもの」に自分の心を開き、誰かに強制されるわけでもなく、自ら神を崇めたのである。

ルカ23:47

百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。

 信仰者であっても、実に多くの状況で私達は盲目的であり、何か奇蹟的な顕現、「神の手」の刺激的な顕れを期待して待ったりする。そしてこれまた多くの場合、自分達が期待したものを得られないので、失望したり神の愛を疑ったりして、まるで子供のように駄々をこねる。自分達の心の前に、自分達の罪の赦しのために十字架につけられた御子イエス・キリストの愛が、絶えず示され続けているにも関わらず・・・。

ローマ5:5-8(新改訳)

5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 「明らかにしておられます」と和訳されている原語の動詞の時制は、現在形である。神の愛は、二千年前のゴルゴタの丘で示されただけでなく、現在に至るまで十字架につけられた御子を通して、私達の心の目の前で示され続けているのである。

 私達の心は百卒長のようだろうか。それとも、十字架につけられたキリストを目の前にして神のしるしの顕現を待ったユダヤ人達のようであろうか。