おそらく非常に多くの人が、一度は旧約聖書を読もうとして創世記から読みはじめ、途中で放棄してしまった経験があるのではないだろうか。クリスチャンでも、「難し過ぎる」といって、特に預言者の書などを読まない人が多いのは確かである。そのような事情を踏まえてか、教会の説教においても解き明かすことを避ける牧師や教師も少なくないと聞く。逆に借り物の知識によって、「自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していない」強引な解釈を書き広めている人もいる。使徒パウロがテモテに書き記している通りである。
Ⅰテモテ1:3-7
3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、
4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。
5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。
6 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、
7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。
そこで、旧約聖書を愛し、日々親しみ、引用し、解き明かし、宣べ伝えていた新約聖書筆記者たちが、旧約聖書の目的と機能をどのように捉えていたかを示す聖句を幾つか引用してみた。引用した聖句以外にも多くの箇所があると思うが、特に重要だと判断したものは以下の聖句である。勿論、その中でも一番重要なものは、イエス・キリスト自身の言葉である。
この世に存在する本は、それぞれ目的をもって書かれており、その目的に沿って読まなければ、その本の本質的意義が理解できない。以下の聖句らに啓示されている目的を考慮し、祈りの心で少しずつ旧約聖書を読んでいけば、真の作者である聖霊自身が、必ず神の意図の沿った知恵を与えてくださるだろう。
- イエス・キリスト自身、地上宣教の時に、旧約聖書、特にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)が、御自身を証しするために書き記されたことを啓示している。
ヨハネ5:39,46
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
- 私達を教えるため。私達に神から来る確かな希望を持たせるため。
ローマ15:4
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
- 警告と訓戒のため
Ⅰコリント10:6-11
6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
- 律法は罪を明らかにし、私達に認めさせるためにある。
ローマ4:15
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
ローマ5:13,20
13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
Ⅰテモテ1:8-10
8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。
9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、
10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。
- 律法は私達をキリストへ導くための養育係
ガラテヤ3:24
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
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上記の「キリストへ導くため」という目的に踏まえて、詩篇119:105は解釈されるべきである。
詩篇119:105
あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
- イエス・キリストに対する信仰によって救いに至る知恵を与えることができる。
Ⅱテモテ3:15
また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
- 一人の罪人を神の僕として造り変え、完全に整えるために有益である。
Ⅱテモテ3:16
16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
- 霊的暗闇、混乱、不安、試練などにおける確かな基準となる光
Ⅱペテロ1:19-21
19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。
20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
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