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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「今は見える」

ヨハネ9:25

すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。

  生まれつきの盲人であった男は、イエス・キリストによって奇蹟的に癒された。自分を癒やしてくれたイエスについて執拗に尋問するパリサイ人らに、これ以上ありえない程、実直に証しをした。「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。常識では起こりえないが実際に起きたことを、誰も否定できない客観的な事実としてごく冷静に語った。

 しかしこの男が「今は見える」と言った時の状況を考えると、心が痛くなる。彼がその時何歳であったかわからないが、彼は生まれて初めて自然の光を見、空の色を見、人の顔を見ることができたのである。しかし、彼がエルサレムの神殿の中で見たものは、一体何だったのか。傲慢と怒気に歪んだパリサイ人らの顔、息子の身に起きた奇蹟を喜ぶどころか恐れで委縮している両親の顔、声を荒げて無知な口論をする立派な服を着た宗教家たち、侮蔑に満ちた目、罵りの言葉を吐き出す口、混乱、、、

 彼が初めて目にする情景はあまりにも醜い現実であった。彼の目の前には、美しい野の花も、色鮮やかな蝶や鳥も、七色に輝く虹もなかった。目を瞑ったり、顔を背けたくなる現実しかなかった。それでも彼にとっては、「今は見える」と言うことができる圧倒的な事実をもたらしたイエス・キリストについて、証しないでいることはできなかったのである。

 この癒やされた盲人よりも五百年近く前に、預言者ハバククは自分の目に入ってくる悪の顕現に悩み苦しみ、主に嘆き叫んでいた。

ハバクク1:2-4

2 主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。
3 あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。
4 それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。

 しかし多くの疑問と困惑を主の前に曝け出していたハバククは、自分の責任を放棄していなかった。自分のところに戻り、主からの答えをただ一人待ったのである。そして主なる神は彼に答えた。

ハバクク2:1-4

1 わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
3 この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。

 醜い現実の中でも、自分が知っている範囲でイエス・キリストのことを忠実に証しした男は、パリサイ人らに追い出された後、イエス・キリストに会い、メシアの素晴らしい啓示を個人的に受けた。

ヨハネ9:35-38

35 イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。 

36 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
37 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
38 すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。

 イエス・キリストの十字架の死と復活を信じたことによって、神は私達の霊の目を開けてくださった。それはまた、それまで見ることも理解することもできなかった霊的現実に対して目が開いたことを意味する。それはまた、自分の罪深さやこの世の悪、思わず目を背けたくなる現実などを見ることでもある。

 そのような状況のなかでも、主なる神は私達を決して見捨てない。信仰をもって待ち望むなら、必ず主なる神は御子イエスのさらに深い啓示を与えてくださる。それは実に慰めと光に満ちたビジョンである。

 

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