an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

象徴的な広告

f:id:eastwindow18:20140528234208p:plain

 冒頭の写真は、ブログに自動的に掲示される広告のイメージをスクリーンショットで撮ったものだが、非常にシンプルながら暗示的・象徴的なもので興味深い。

 まず一番上に、マタイ4:19 [彼らに言われた「私についてきなさい」]の聖句が、イタリア語で引用されている。聖書の本文では反復を避けるために主語が省略され第三人称の動詞で表現されているが、勿論、イエス・キリストが彼の弟子達に命じた言葉である。

 しかし問題は、フランシスコ一世教皇と呼ばれているホルヘ・マリオ・ベルゴリオ氏の写真の横に書かれているフレーズである。「聖地巡礼で教皇について来なさい」と呼び掛けられているのである。

 私はこの意図的な置換が、実にカトリック的で、カトリックの多くの教義の本質を見事に表していると、変な意味で感心してしまった。

 聖書が啓示している福音の「主語」は、いつでも神であり、イエス・キリストである。人間は、それがたとい素晴らしい徳を持った人物であろうと、神の福音の恵みを必要とする罪人である。「罪人である私は、神を信じて救われた」という告白は、「神が罪人である私を愛しておられる」という驚異的な啓示に比べたら、福音の然るべき結果を語っているに過ぎない。(勿論、貴重な証であるには違いないが)

 私達が従うべき方は、牧師でも聖職者でも教会でも組織でも自分自身でもなく、良き羊飼いであるイエス・キリストだけであり、たとい多くの立派な信仰者に雲のように囲まれていたとしてしても、義なる太陽はイエス・キリストのみである。

 だから彼から目を逸らしてはならない。

ヨハネ10:14-16

14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。 

へブル12:1,21 

1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 

2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。