an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

油を注がれた者に触れるな?(2)

油を注がれた者に触れるな?(1) - an east windowの続き

レビ14:1-29

1 主はまたモーセに言われた、 

2 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、 

3 祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、 

4 祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、 

5 祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、 

6 そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、 

7 これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。 

8 清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。 

9 そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。 

10 八日目にその人は雄の小羊の全きもの二頭と、一歳の雌の小羊の全きもの一頭とを取り、また麦粉十分の三エパに油を混ぜた素祭と、油一ログとを取らなければならない。 

11 清めをなす祭司は、清められる人とこれらの物とを、会見の幕屋の入口で主の前に置き、 

12 祭司は、かの雄の小羊一頭を取って、これを一ログの油と共に愆祭としてささげ、またこれを主の前に揺り動かして揺祭としなければならない。 

13 この雄の小羊は罪祭および燔祭をほふる場所、すなわち聖なる所で、これをほふらなければならない。愆祭は罪祭と同じく、祭司に帰するものであって、いと聖なる物である。 

14 そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。 

15 祭司はまた一ログの油を取って、これを自分の左の手のひらに注ぎ、 

16 そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。 

17 祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。 

18 そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。 

19 また祭司は罪祭をささげて、汚れのゆえに、清められねばならぬ者のためにあがないをし、その後、燔祭のものをほふらなければならない。 

20 そして祭司は燔祭と素祭とを祭壇の上にささげ、その人のために、あがないをしなければならない。こうしてその人は清くなるであろう。 

21 その人がもし貧しくて、それに手の届かない時は、自分のあがないのために揺り動かす愆祭として、雄の小羊一頭を取り、また素祭として油を混ぜた麦粉十分の一エパと、油一ログとを取り、 

22 さらにその手の届く山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取らなければならない。その一つは罪祭のため、他の一つは燔祭のためである。 

23 そして八日目に、その清めのために会見の幕屋の入口におる祭司のもと、主の前にこれを携えて行かなければならない。 

24 祭司はその愆祭の雄の小羊と、一ログの油とを取り、これを主の前に揺り動かして揺祭としなければならない。 

25 そして祭司は愆祭の雄の小羊をほふり、その愆祭の血を取って、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。 

26 また祭司はその油を自分の左の手のひらに注ぎ、 

27 祭司はその右の指をもって、左の手のひらにある油を、七たび主の前に注がなければならない。 

28 また祭司はその手のひらにある油を、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、すなわち、愆祭の血をつけたところにつけなければならない。 

29 また祭司は手のひらに残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のために、あがないをしなければならない。 

 レビ記の十三章と十四章には「らい病に冒された者」(新改訳第三版においては、差別表現を避けるためと言う理由で、「ツァアラト冒された者」と訳出されている)に関する規定が詳細に書かれている。これらの章は、罪に穢れて神から遠く離れてしまっている人間が、キリストの尊き血(彼の命が罪の清めのために捧げられたことの証拠である)によって清められ、聖霊の豊かな内在(油注ぎがそのシンボルである)を受けることの予型である。

 新約聖書は、全ての人間が神の前で罪びとであることを明言している。そこには例外は存在しない。しかし、それと同時に、神はキリストにおいて罪の赦しを全ての人に備えてくださったのである。

ローマ3:23-26

23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 

24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 

 「らい病に冒された者」が祭司に癒されたとみなされた場合、生け贄の血と聖なる油が右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指に付けられた。これも霊的に解釈するならば、神の大祭司イエス・キリストの恵みによって、罪びとにキリストの血と聖霊が注がれ、罪びとは神の前で完全に清い、つまり「義とされる」ことを表している。その罪の清めと聖霊の内在によって、私達の耳は神の声に対して開かれ、私達は神の働きのために手足を動かして、地上の生を捧げるのである。

 そのような意味において、キリストを信じて神の義認を受けた者は全員、「油を注がれた者」である。よって「牧師」と呼べれている人に対してだけ適用するのは、聖書的根拠を持たない。

 クリスチャン・トゥデイに記事を投稿した徐起源氏は、

私たちは、へりくだることを覚えなければなりません。 

 と書いた。確かに全てのクリスチャンは、ただ神の憐みによって罪から清められた存在でしかなく、その点において牧師や監督と一般信徒という違いは存在しない、という事実を、神の前にへりくだり、心にしっかり刻み込む必要があるだろう。