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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

本当に行うべきことを行ったか

出エジプト32:1-6

1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。 

2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。 

3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。 

4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。 

5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。 

6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。 

Ⅰサムエル13:1-14

1 サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。 

2 さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。 

3 ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。 

4 イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 

5 ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。 

6 イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。 

7 また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。 

8 サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。 

9 そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。 

10 その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。 

11 その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、 

12 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。 

13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。 

14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。 

 時代背景は異なるが、どちらのエピソードも、緊迫した状況に押し流されて、本来すべきことから目を逸らし、その場しのぎの対処をしてしまった例である。 しかもその対処には、「神への犠牲を捧げる」という共通の名目が見られる。

 アロンとサウルの弱さは、私達の弱さでもある。本来やるべきことから目を逸らし、「御心を行う」とか「神に仕える」とか宣伝しながら(自己暗示の手段でもある)、様々な「ビジョン」やプロジェクトが計画され、実際に行われていないだろうか。そして「祝福の証拠」が、人為的に「ひねり出され」語られてはないだろうか。

マタイ5:21-26

21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 

23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 

24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 

25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 

26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。  

  イエスが語っている状況設定のなかで、「兄弟に向かって怒り」「愚か者、馬鹿者と言い」「恨みを抱いている」のは誰だろうか。「祭壇に供え物を捧げようとしている霊的な自分」ではなく、「神の宮に参拝しようともしていない」他人ではないか。「怒って勝手に恨み抱いているのが悪いのだから、地獄の火に投げ込まれても自業自得」「主は『供え物を捧げなさい』と言っているではないか」と自分自身を説得し、供え物を捧げることもできるだろう。しかしそれでも、「まず行ってその兄弟と和解する」ことが主の御心なのである。

 はるか遠くの地まで宣教に行ったり、毎日熱心に奉仕したり、インターネットを通して福音を伝えたり、コーラスで賛美したり、私達が「行っていること」は多いかもしれない。しかし問題は「本当に行うべきことを行ったか」なのだろう。

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 

 「行ったこと」や「行っていること」によって、「行うべきこと」が覆い隠されてしまわない様に注意しなければならない。

 

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