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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「肉によって生れた者」と「霊によって生れた者」

聖書による検証 キリストにおいて ガラテヤびとへの手紙

ガラテヤ4:21-31;5:1

21 律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。 

22 そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 

23 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 

24 さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。 

25 ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 

26 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。 

27 すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。 

28 兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。 

29 しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。 

30 しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。 

31 だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。 

5:1

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

  使徒パウロは、キリストの恵みによる救いを既に経験していたガラテヤ人の信徒らが、律法の行いによって神の前に正しいと認められようとする「異なる福音」に惑わされているのを見、彼らが義認のベースとしていた律法の中、正確には創世記の中にあるアブラハムの二人の子らにまつわるエピソードを基に、彼らに省察を促している。

律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。

 これは主イエスが、一人の律法学者に質問に受けた時に取った態度や、パリサイ人達に対して「あなたがたの律法」と言った態度を思い出させるものである。

ルカ10:26,27

25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 

26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。  

ヨハネ8:17

あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。 

ヨハネ10:34

イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 

  使徒パウロは、創世記に書かれているアブラハムの二人の子、イシマエルとイサクを寓喩的解釈をし、「肉によって生れた者」と「霊によって生れた者」の本質的違いを明確に啓示している。

 イシマエルは、アブラハムとサラが飢饉から逃れてエジプトに下った時に得た奴隷の女ハガルによって生まれた子である(創世記16章に妻サラの不信仰によって、ハガルを通してイシマエルが生まれる経緯が書かれている。)

 イサクは、イシマエルが生まれて十四年後、主なる神がアブラハムに約束をしてから二十五年後(!)に、正妻サラによって奇跡的に生まれた子である。だから使徒パウロは、イシマエルを「肉によって生まれた女奴隷の子」と呼び、イサクを「約束によって生まれた自由な女の子」と呼んでいる。

 パウロはさらに「女奴隷ハガル」と「自由の女サラ」を二つの契約に喩え、一方を「シナイ山で与えられた律法を基にした契約」として、その契約による奴隷を生み出している「地上のエルサレム」に喩えている。大変興味深いのは、「自由の女サラ」を「上なるエルサレム」つまり「天における霊的な母としてのエルサレム」としていることである。そしてその契約は神によって霊的に備えられた「天に属する契約」、つまり「信仰による契約」を差している。

 この「肉によって生れた者」と「霊によって生れた者」、または「地上のエルサレムに属する奴隷」と「上なるエルサレムに属する約束の子」の本質的違いについては、主イエスがパリサイ人でイスラエルの教師であったニコデモに対して語った言葉や洗礼者ヨハネの言葉によっても確認することができる。

ヨハネ3:5,6

5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 

6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 

8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

ヨハネ3:31

上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 

 7節の「新しく」という原語(ἄνωθεν anōthen)は、「上から」という意味がある。たしかに「信仰の父」アブラハムは、当時は存在すらしていなかった「地上のエルサレム」を求めていたのではなく、「上なるエルサレム」「神によって備えられた都」を、信仰によって求めて生きていたのである。

へブル11:8-16

8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 

9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 

10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 

11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 

12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 

13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 

14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 

15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 

16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 

 そして同じ信仰によって、私達も「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)であり、「自由の女の子」であり、「霊によって生れた者」、「天のエルサレムに属する者」(ピリピ3:18-20)なのである。

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

  キリストは、罪の奴隷であった人間を解放し、このような素晴らしい地位を与えてくださった。知恵あるように見せかけた巧みな惑わしの言葉で、再び奴隷のくびきに繋がれてはならない。

コロサイ2:3-23

3  キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。 

4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。 

5 たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。 

6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 

7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。 

8 あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 

9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 

10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、 

11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。 

12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。 

13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 

14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 

15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。 

16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。 

17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 

18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、 

19 キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。 

20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、 

21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。 

22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。 

23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 

 

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