蛇のように賢く、鳩のように純真であれ(2)
マタイ10:16(口語訳)
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
(塚本訳)
いまわたしがあなた達を送り出すのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように純真であれ。
(1)において、邪悪で罪深い終わりの時代にあって、聖霊の清めによる「無垢さ」「純真さ」「素直さ」を求めることが不可欠であると書いたが、その「純真さ」を守るためにも「蛇のように賢く」なければならない。それでは、実際に「蛇のように賢い」とはどのような意味であろうか。
ここで「賢く」と訳されているギリシャ語は「PHRONIMOS」で、新約聖書においては十四回使われている。使徒パウロは五回使っているが、どれも「人間的な賢さ」を表すために使用しており、皮肉的なニュアンスを帯びている。(ローマ11:25;12:16;Ⅰコリント4:10;10:15;Ⅱコリント11:19)
従って参考になるのは、マタイ自身が同じ福音書の中で使っている箇所である。マタイは、三つの有名な喩え話の中で使っている。一つ目は、岩の上に建てられた家の喩え話である。
マタイ7:24-27
24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
賢い人も愚かな人も、同じように自分の家を建て、そのために同じ労力を費やしている。またどちらの家に対しても雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてそれぞれの家に打ちつけている。それでは、愚かな人と比較して、賢い人のその「賢さ」はどこにあるのだろうか。それは家の土台の違いであった。賢い人は岩の上に家を建て、愚かな人は砂の上に自分の家を建てたのである。そしてその岩とは、キリスト自身であり、またキリストの言葉を聞いて実行することである。
二つ目の喩え話は、「忠実な思慮深い僕」の喩え話で、その中で問題の形容詞は「思慮深い」と訳されている。
マタイ24:45-51
45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
一体何が一人の僕を「思慮深く」し、逆に「悪く」していたのだろうか。忠実な思慮深い僕は、自分の主人の僕仲間、自分の同僚に対して「時に応じて食物を備えさせていた」のである。彼は自分の主人がその目的のために自分を選んでくれたのを自覚していたが故に、遜り自分の同僚も一緒に「主人の家」で働けるように、また主人の帰国に備えるように日々励ましていたのである。反対に悪い僕は、自分の僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしていた。それは「自分の主人は帰りがおそい」と心の中で思っていたからである。ここでの「思慮深さ」は、思いがけない日、気がつかない時に自分の主人がいきなり帰ってくるかもしれないことに関する「備えの心」にある。
三つ目の喩え話は、十人の乙女である。
マタイ25:1-13
1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
この喩え話の中で、十人の乙女全員が、みな居眠りをして、寝てしまった。また十人の乙女全員が、夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』という呼ぶ声を聞き、十人の乙女全員が、みな起きて、それぞれあかりを整えた。それでは、五人の思慮深い乙女たちのその思慮深さはどこにあったのだろうか。反対に、思慮の浅い乙女たちのその思慮の浅さは何だったのだろうか。唯一の違いは、「備えの油」である。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
しかもこの「備えの油」は、花婿を迎え、婚宴の場へ同行し、婚宴の時を過ごすためのものであった。思慮の浅い乙女たちも、油を買いに真夜中の道を歩くために照らすだけの油は残っていたのである。これは、この地上における人生を過ごすためだけの信仰と、救い主イエス・キリストと永遠の命を過ごすことを最上の喜びとする信仰との決定的な違いを表している。使徒パウロは、コリント人への手紙でこう書いている。
Ⅰコリント15:19(新共同訳)
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
御利益宗教的な信仰や繁栄と成功の福音の罠は、この点にある。決定的に大事な時に、「花婿であるキリストに会うために出かける」のではなく、「足りない油を買いに出かける」ことになり、婚宴に参加できないことになりかねないのである。
「蛇のように賢くあれ」。この「賢さ」は、悪巧みや狡猾さではなく、「キリストと御言葉という土台の上に、自分の人生を築き上げる意思」であり、「主なるキリストが思わぬ時に帰ってこられることに対する畏れと備え」であり、「地上的信仰による儚い喜びではなく、キリストと永遠の命を共にする喜びを目指す気高さ」である。