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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

十字架による心と思いの一致

ゼカリヤ12:10

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。 

 信徒の集まりにおいて「聖霊の力を感じない」「心の一致がない」「愛がない」「形式的で偽善的」と不満をつぶやくのはよくあることである。信徒を導く責任のある立場の者は、「皆さん、お互いに心と思いを一つにして、聖霊の力を求めましょう。リバイバルを求めましょう」と勧め、信徒らはいつもより笑顔を見せ、余計なことを言わないように心を引き締め、より力を込めて祈るようになる。しかし、これは聖霊が本当に求めていることだろうか。そもそも兄弟姉妹の一致は、人間的努力の結果として生まれ、その上に成り立っているものだろうか。どのような努力をすれば、隣の席に実際にいる、人種も、国籍も、文化も、母国語も、性別も、社会的立場も、職業も、宗教的バックグラウンドさえも異なる兄弟姉妹と「心と思いを一致させる」ことができるというのだろうか。人間的親近感や連帯感は、同時に恐ろしい排他性の反面を持っていることは、誰でも経験上知っているはずである。

 御子イエス・キリストの死と復活によって、神は地上に聖霊を遣わした。それは冒頭に引用した預言のように、「恵みと哀願の霊」でもある。罪の赦しの可能性を啓示し、それを哀願する心を罪びとに与えるからである。その聖霊の働きによって、私達は十字架につけられた神の独り子イエス・キリストを仰ぎ見る恵みを受けるのである。このイエスの十字架の死にこそ、真の「心と思いの一致」が成立するのである。それ以外のところで得る一致は、たといそれが人間的に素晴らしいものであったとしても、肉に属するものであり、聖霊によるものではなく、地上的で不安定なものである。

 イエスの十字架の死を信じるということは、自分もイエスと共に十字架につけられ、イエスと共に葬られたことを認めることである。そしてそれは、まさに革新的な体験である。古い自我がキリストと共に葬られ、キリストに内にありキリストによる新しい自我が生まれる。父なる神と御子が個別のパーソナリティーを保ちながら完全に一体であるように、キリストの内で、真の神と真の人間が混合することなく一体となっている。そのキリストの内にのみ、「聖霊の力」と「完全な一致」が存在するのである。そして、十字架を通してのみ、地上的宗教性から解放され、霊と真理によって父なる神を礼拝することができるのだ。

Ⅱコリント5:13-17

13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 

 周囲を見て現状を観察し、「愛や力の不足」や「一致の欠如」を嘆くのも、現実を自覚するという意味で、解決に対する一つのプロセスだろう。しかしその前の段階として、自分たちの集まりの土台に、しっかりと十字架の基礎があるか、御子の死がまるで自分の独り子を失ったかのように、リアルに、そして激しく自分の心をとらえ、自分の罪が御子を「突き刺してしまった」という真理に激しく泣くような体験を通ったかどうか、再確認する必要があるのではないだろうか。また逆に、現状が満足できると思える場合もあるだろう。それでも、同様に自分たちの調和や活動が、人間的な基礎の上に立っていないかどうか検証することは、教会の交わりにとって大きな益となるのではないだろうか。