an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

隠れている「私」への呼びかけ

ヨハネ11:43,44

43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 

44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。 

ヨハネ20:14-16

14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。 

15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。 

16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 

 たとい視覚を失ったとしても、「私」という存在はあり続ける。たとい聴覚と嗅覚も同時に失い、外界からの刺激を感知する神経が全て麻痺してしまい、優しく触れる手を感じることすらできなくなったとしても、「私」は確かに存在し続ける。想像することは恐ろしく難しいことで、実際のそのような事態になったら、「私」は言い表し難い苦悩を味わうだろう。しかし苦悩する「私」の存在は、損なうことはできないのである。植物人間状態になってしまった患者が、近親者の呼び掛けによって反応することがあることも、研究によって知られるようになってきた。

 キリストが呼びかけたのは、肉体や魂の「奥」に閉じ込められていた霊的存在としてのラザロという「私」であり、マリヤという「私」に対してであった。同様に、たとえ私達が肉体的に健康であっても、もしくは病気や障害を抱えていたとしても、誰にも見えない、誰も触れることができない、誰も本当には理解することができないところに隠れている「私」に、死から復活したイエス・キリストは語りかけ、いのちの光をあたえてくれるのである。

 

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