an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

泣く者と共に泣きなさい

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ローマ12:15

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 

黙示3:17

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

  終わりの日の霊性は、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことばかり求め、後ろめたさを感じながらも「泣く者と共に泣く」ことに関わらないようにする。礼拝に参加し、各自の「賜物」を用いて、マイクの前で声高らかに歌い、それぞれ得意な楽器をかき鳴らし、両手を上げて、体を揺らして、異言で祈って、高揚してほんのり赤く火照った笑顔で「今日の礼拝は祝福されたね」と言って家に帰る。

 問題が山積みであることを知っていて、無理に笑うことに偽善を感じてしまう繊細な良心の持ち主がいようが、「傷ついた葦」や「ほのぐらい灯心」がいようが、処方箋に書かれて出てくるのは、「賛美」「喜び」をその場しのぎの特効薬のように扱ったものばかり。悲しむ人の傍に静かに座り、「主よ、この人の隣人にさせてください」と切に祈る霊性は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。ラオデキヤの教会からいつの間にか「追い出されて」いなくなっていたイエス・キリストのように、「教会の外で」、中にいる人々に語りかけているのではないだろうか。その声はよく通るはっきりした声であるが、自己満足の雑音に邪魔されて聞こえてこない。

 私達は、何を恐れているのだろうか。「泣く者と共に泣く」ことで、神の祝福が損なわれるのだろうか。そんなことで消えてしまう「喜び」など、表面的で限りなく自己満足に近いものではないか。

 「泣く者と共に泣く」ことを静かに実践する時、「喜ぶ者と共に喜ぶ」だけでは知り得ない、深い喜びと慰めを体験する。それは、天上の栄光を脱ぎ捨て、地上において悩み苦しむ罪人の隣人となられたイエス・キリストの霊との交わりから与えられるものである。

ピリピ2:4-8

4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 

5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。