an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子の死ゆえに

Ⅰ列王18:38

すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。

 通常、火は下から上に向かって燃え上がる。しかし預言者エリヤがカルメル山頂で祈った時、天から主の火が降って来て、祭壇の上に載せてあった生贄から始まり、次に生贄が載せてあった薪、祭壇を構成していた十二個の石、そして地面のちり、最後には祭壇の周りを掘った溝を満たしていた水まで焼き尽くしてしまった。

 この天から降ってきて全てを焼き尽くした火は、イエス・キリストの十字架のシンボルである。全人類の罪を背負った御子の十字架の死は、決して「下から来る」、人間的・地上的な殉教死ではなく、天地創造の前、永遠の時から備えられた「天から来る」犠牲の死である。それは神の御子イエスだけが成し遂げることができた、完全な犠牲の死である。そして父なる神が唯一受け入れた唯一の犠牲の死である。

 バアルの四百五十人の預言者たちのように、今でも多くの人が「自分たちで造った祭壇」の上に「自分の生贄を捧げ」、繰り返し繰り返し叫び続け、「祭壇のあたりを踊り回り」、「剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ」、神が「天から火をもって答えてくれる」という「神の愛顧」を何とか受けよう待っている。

 しかし、もし主なる神が私達罪びとを受け入れてくださり、私達の祈りに応えてくださり、私達のあらゆる罪を赦して下さる理由があるとしたら、それはただひたすら御子の犠牲の死が、父なる神の前で完全であったからに他ならない。

 私達がたとえ大声で叫び続けようとも、自分たちの「傷」や「流した血」を神の前で列挙しようが、生ける神が私達を受け入れる根拠は、私達の声ではなく、御子イエスが十字架の上で「完了した」と叫んだその声であり、私達の傷や流した血ではなく、御子が十字架の上で受けたその傷、そして流したその血なのである。

Ⅰペテロ2:22-25

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 

23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 

24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 

25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。 

 

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