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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

霊感における自由

聖書

 『新約聖書のなかで引用されている旧約聖書の聖句のリスト』を研究すると、非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。それは、新約聖書の筆記者たちが旧約聖書を引用するにあたって、ヘブライ語聖書と一緒にギリシャ語訳である七十人訳を、文脈やメッセージに応じてかなり臨機応変に使い分けているという点である。

 例えば、マタイによる福音書において、筆記者は明らかにヘブライ語聖書とギリシャ語七十人訳を意図的に使い分けている。

マタイ12:18-21

18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。 

19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。 

20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。 

21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。 

 18-20節はヘブライ語聖書イザヤ42:1-3からの引用であるが、21節では一節だけギリシャ語七十人訳イザヤ42:4からの引用なのである。

 また使徒行伝の筆記者ルカも同じようなことをしている。

使徒2:25-31

25 ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。 

26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。 

27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。 

28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。 

29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。 

30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、 

31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

 25節から28節はギリシャ語七十人訳から引用、30節はヘブライ語聖書詩篇132:11から引用、31節はヘブライ語聖書詩篇16:10から引用している。さらにルカは、使徒13:35においては同じ詩篇16:10を七十人訳から引用しているのである。

 へブル人への手紙でも、同じように旧約聖書の引用にヘブライ語とギリシャ語のバージョンが使われている。

へブル3:7-11

7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 

8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。 

9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、 

10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。 

11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。 

へブル3:15

それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 

へブル4:7

神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。 

 これら三か所の聖句は、同じ詩篇95:8を引用しているが、筆記者は7節から11節の所ではヘブライ語聖書から、3:15と4:7はギリシャ語七十人訳から引用している。

 さらに同じヘブル人への手紙の筆記者は、2:13の中で、前半の引用はイザヤ8:17の七十人訳から、後半の部分はイザヤ8:18のヘブライ語聖書から引用している。

ヘブル2:13

また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。 

イザヤ8:17,18

17 主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。 

18 見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。 

 聖霊は神の霊である。その霊感や導きは、人間の「こうあるべし」という偏狭な固執の隙間を、思いのままに吹き抜ける「自由な風」である。