無邪気ではいられない(1)
「イスラエルを祝福」と言うとき、それは国を指すのか、民族を指すのか、ユダヤ教徒を指すのか、ユダヤ人クリスチャンを指すのか、親イスラエルの人は明確にしていない。私は、イスラエルは、親イスラエルになるように、様々なアプローチを試みるが、キリスト教内へもアプローチをしていると見ている。すなわち、宗教的アプローチである。友好は別に悪くはない。しかし、教理的な問題が整理されないで、ブームになっていることに危惧を思える。
非常に霊的なアンテオケの教会の中に働いた偽善の力。ケパ(ペテロ)もバルナバも他のユダヤ人も、異邦人同様、キリストの恵みを信じたその信仰によってのみ救われていた。彼らは聖霊に満たされ、力強い証し人であった。バルナバについて聖書は、「彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であった」(使徒11:24)と記述している。彼は、神の恵みに喜び、主に対する信仰を揺るがない心で持ち続けるように人々を励まし、多くの者を主イエスにつなぐことができる器であった。 そんな彼が、徐々に異邦人のクリスチャンから離れさせる程、この「偽善の霊」は狡猾であった。
ガラテヤ2:11-13
11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。
12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。
13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。
悪霊に憑かれた男をも恐れなかったバルナバやケパを委縮させ、縛り、引きずり込む力。回心した後も、元教会迫害者という過去とそのラディカルな熱心さによって、エルサレムの教会では収まるところがなかったパウロをただ一人理解し、彼をアンテオケの教会に仕えるものとして「スカウト」したバルナバを、異邦人の信徒やパウロ自身からも「引き離す」ことができた力。
「イスラエルを祝福」「イスラエルと教会の交わり」「聖地旅行による祝福」「へブル的聖書理解」という「善いこと」の陰で静かに働く力に無邪気でいられるほど、この力は「無邪気」ではない。
(2)へ続く
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