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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストが十字架にかけられた日(6)追記

 『キリストが十字架にかけられた日』()()()()()まとめ

  先日書いた内容を読み直していて、もう一点示されたので追記しておきたい。

 キリストが十字架にかけられた日は、共観福音書の記述によればアビブ(ニサン)の月の第十五日、除酵祭の第一日目の午後三時以降で、ヨハネによる福音書の記述によれば、第十四日の過越しの子羊を屠る日の午後三時以降であることを書いた。また、聖書にはキリストが生まれた年も死んだ年も判断できる材料を提供していないことも明記した。好奇心旺盛な研究者で、「太陽は光を失い、全地は暗くなって」(ルカ23:44)という記述を基に、当時パレスチナの地で日食があった年を計算し、イエスが死んだ年を推測した人がいるが、科学的なアプローチとしては面白いが、「太陽は光を失い、全地は暗くなって」という現象が、あくまで自然現象の一つで、神による超自然的介入の可能性を除外している前提が欠点である(奇蹟を信じない人にとっては、こちらの概念の方が欠点だと思うだろうが)。

 私が意味があると思ったことは、片や当時の感覚からすると明確にキリストが十字架にかけられた日を啓示している反面(上記したように一日のズレがあると言え)、その年に関しては聖書が明らかにしていない、この「物足りなさ」である。自分の誕生日はわかっているが、何年に生まれたかはわからなかったとしたらどうだろう。

 私はこの「不足感」について、神がキリストの死んだ日を啓示したのは、正確な年月日のデータを知らせるためではなく、あくまで、神の御子イエスが『世の罪を取り除く神の子羊』として、律法で預言されていた通り、十字架の上で命を捧げた、という偉大な真理を啓示するために必要だった、ただそれだけの理由であることを暗示するものだと思う。言い換えるならば、「啓示すべきだったけれど全部はできなかった」というスタンスではなく、「必要なことは全て啓示した」「啓示していないものは特に必要ないものである」ということである。

ヨハネ20:30,31

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 

31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

ヨハネ21:25

イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。  

申命記29:29

隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。

 アーティストが個展を開くとき、伝えたいテーマが明確で、作品に自信があるとき程、数ある作品の中から展示する作品を厳選する傾向があるが、逆にメッセージに迷いがあり、作品の完成度に対する自信がなく、動機が純化されていないと、余分を切り捨てられずに展示する作品が不要に増える傾向があるのと共通する。

 教会の説教においても、聖霊からメッセージが明確な場合、不要な繰り返しや感情に訴える「色付け」など全く必要なくなり、シンプルなメッセージの中に聴衆は神の声を聴くのである。

 全知全能の神、天地創造の神の御子が、天の栄光を「脱ぎ捨て」、地上で人類の罪を取り除くためだけにすべてを捧げた。信じる者に与えられている御霊は、その御子の霊である。

ピリピ2:6-11

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 

10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 

11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。