an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

誰の責任?(2)

 引き続き十二使徒を題材に考察してみよう。

以下、いくつか挙げる主張は正当性をもつだろうか。

  1. 十二使徒の一人のイスカリオテのユダは、イエス・キリストを裏切った。だから十二使徒は偽者である。
  2. 十二使徒の一人のイスカリオテのユダは、イエス・キリストを裏切った。だから同じく十二使徒に選ばれたマタイ、ヨハネ、ペテロが書いたものは、信用することはできない。
  3. イスカリオテのユダはイエス・キリストを裏切り、ペテロは否定したので、十二使徒を選んだキリストは、信頼に値しないし、彼の教えは真理ではない。

 確かにユダは銀貨三十枚でイエスを裏切り、ペテロは「あの男のことを知らない」と否定し、他の使徒達もイエスがゲツセマネの園で逮捕された時、イエスを置いて逃げ去った。それぞれ異なる動機で、異なる行動を選択した。だからこそ、結果もそれぞれ異なるのである。ユダは裏切ったことを悔い、銀貨を返そうとしたにもかかわらず、自殺という選択を取った。ペテロは痛々しいプロセスを通してイエスとの関係回復に至った。

 ステレオタイプの一般論から今一歩進み、個々の背景や動機、感情、結果などを詳細に検証していくと、今まで自分の領域の外に置いて「地下の物置にある埃のかぶった古臭い駄作の絵」だと批判してきたものが、実は自分の心を完璧に映し出す鏡であることを発見する。ユダやペテロの中に映り込む、自己愛の奴隷としての自分に驚き、何よりキリストの忍耐深い愛を知って、神の前に悔い改める機会が与えられるのである。