an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

誰の責任?(1)

 『聖書と霊感について』のコメント欄について考えていて、一つの考えが示された。他の読者の方にも有益だと思うので、記事として共有してみようと思う。

マタイ10:1-4

1 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。 

2 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 

3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 

4 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。 

 十二弟子を選び、使徒として汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やす権威を与えたのは、イエス・キリスト自身であった。しかし、その十二使徒のうちの一人、イスカリオテのユダはイエスを裏切ったのである。

ヨハネ6:70,71

70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。 

71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。  

  この言葉に、イエス自身、ユダが裏切るだろうこと予め知ってはいたが、そのユダの選択に関与していないこと、またその選択を容認したわけでもないことが啓示されている。イエスは、ユダを使徒のひとりとして選び、使徒としての働きのために霊的権威を与えたのであって、そのイエスの御旨を踏みにじり、悪魔に魂を売ったのはユダ自身である。イエスは、グループの会計としての務めに、元々取税人で「金銭の扱い方」をよく心得ていたマタイではなく、敢えてイスカリオテのユダを選ばれた。他の弟子ではなく、彼に責任ある任務を与えたのである。

 私達は「イエス・キリストの選択が間違っていた。裏切ることを知っていたなら、使徒として選ぶべきではなかった」と御子イエスを非難するだろうか。また、ユダの裏切りはペンテコステの日に百二十人が聖霊のバプテスマを受けることの何らかの障害となっただろうか。あの日、三千人の魂が救われるのに何か重大な悪影響を与えただろうか。タルソのサウロがイエス・キリストを信じずに迫害していたのは、イエスが選んだ使徒の一人が悪魔に魂を売ったことが原因だったのだろうか。

 イスカリオテのユダは、自分の選択の正当な報いを受けた。他の弟子たちは、イエスを信じることによって、信じる者に対する備えられていた正当な報いをそれぞれ受けたのである。

マタイ17:14-18

14 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、 

15 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 

16 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。 

17 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。 

18 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。 

 イエスは弟子たちに悪霊を追い出し、あらゆる病気を癒やす権威を授けたのではなかったか。しかしこの弟子たちの不信仰に対して、イエスを非難することができるだろうか。

 神を信じる人にとっても信じない人にとっても、今生きているの命は一つの賜物である。誰も努力して心臓を動かしている人はいないし、お金を払って物事を認識する能力を購入した人はいない。命はとてつもない価値を持つプレゼントである。ただ、その賜物をどう扱うかは各自に選択の自由が与えられている。そして各自の選択に従って、それぞれ公正な報いを受け取ることになる。

 この自由の代価が、キリストの死であることを理解している人は幸いである。

)に続く