an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書と霊感について

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Ⅱテモテ3:14-17

14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、 

15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

十五節の「聖書」と訳されている原語は、Stephens 1550 Textus Receptusによると冠詞つきで τὰ ἱερὰ γράμματα(ta iera grammata)とある。ローマ1:2においては、異なる単語 γραφαῖς ἁγίαις (grafaiV agiaiV)を使っているが、「iera」も「agiaiV」も「聖なる」と言う意味である。

しかし、そもそも「聖なる」書物とは何なのか。そして「すべて霊感を受けて書かれたもの」とは、どういう意味なのだろうか。

「聖書」とか「聖典」と聞くと、何となく一冊の本が超自然的方法で「天から降ってきて」、神から選ばれた特別な一人の人に授けられ、誰も手が届かないところで大切に保管されてきた本というイメージがあるかもしれないが、現実の聖書の成り立ちはそれとは全く異なるものである。聖書は私達が普通に考える以上に「奇蹟的な本」だが、魔法のように突発的に出現したものではなく、その形成には「一人の人間の人生以上の長い時間」と、その長い過程における「神の主権的介入」が決定的な要素として織り込まれているのである。

一人の八十歳を超える老人が、それまで口頭伝承されてきた信仰者の歴史を書き記し、そしてシナイ山で受けた神の啓示と荒野でのイスラエルの民を記録した。シナイ山上で受けた「十の言葉」(所謂『十戒』のことである)に関しては、二枚の石の板に書かれた。

 出エジプト34:28

モーセは主と共に、四十日四十夜、そこにいたが、パンも食べず、水も飲まなかった。そして彼は契約の言葉、十誡を板の上に書いた。 

聖書には、モーセの五書の十戒以外の膨大な部分がどこに書かれたか、いつ書かれたか、明記されていない。またこの時に書かれた言葉は、士師時代に生まれ、ダヴィデ王やソロモン王の時代を経て、捕囚前の時代に使われていた古代ヘブライ語の字体ではなかったはずで、原カナン文字かフェニキヤ文字であったのではないかと言われている。

その古代ヘブライ語の字体も、マソラで使われている方形ヘブライ文字とは大幅に異なるものである。

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そして当時の表記には、母音符やアクセント記号、句読点も、単語と単語を区切るスペースも無い表示法であった。どの様な感じであったか少しでも理解するため、英語の文に当てはめて書いてみる。例えば、出エジプト34:21の「Six days thou shalt work, but on the seventh day thou shalt rest」が、「S X D Y S T H S H L T W R K B T N T H S V N T H D Y T H S H L T R S T」と書かれていたと考えれば、今の私達の常識的概念が全く通用しないことが理解できるのではないだろうか。

ヨシヤ王の第十八年(紀元前630年頃)に、大祭司ヒルキヤが神の宮で見つけた律法の書は、古代ヘブライ語字体でそのような方法を使って羊皮紙に書かれていたはずである。

列王下22:3-11

3 ヨシヤ王の第十八年に王はメシュラムの子アザリヤの子である書記官シャパンを主の宮につかわして言った、 

4 「大祭司ヒルキヤのもとへのぼって行って、主に宮にはいってきた銀、すなわち門を守る者が民から集めたものの総額を彼に数えさせ、 

5 それを工事をつかさどる主の宮の監督者の手に渡させ、彼らから主の宮で工事をする者にそれを渡して、宮の破れを繕わせなさい。 

6 すなわち木工と建築師と石工にそれを渡し、また宮を繕う材木と切り石を買わせなさい。 

7 ただし彼らは正直に事を行うから、彼らに渡した銀については彼らと計算するに及ばない」。 

8 その時大祭司ヒルキヤは書記官シャパンに言った、「わたしは主の宮で律法の書を見つけました」。そしてヒルキヤがその書物をシャパンに渡したので、彼はそれを読んだ。 

9 書記官シャパンは王のもとへ行き、王に報告して言った、「しもべどもは宮にあった銀を皆出して、それを工事をつかさどる主の宮の監督者の手に渡しました」。 

10 書記官シャパンはまた王に告げて「祭司ヒルキヤはわたしに一つの書物を渡しました」と言い、それを王の前で読んだ。 

11 王はその律法の書の言葉を聞くと、その衣を裂いた。  

  何よりも驚くことは、この記述によると、ヒルキヤの発見以前にはモーセの五書が一巻もなくなっていたことになり、極めて危機的な状況だったのだ。しかしこれはまた神の視点から考えると、ヨシヤ王という器が備わるまで、不信仰の人々の手から律法の書を守っていたということである。

 実際主なる神は、ヨシヤ王の子エホヤキムが預言者エレミヤを通して語った言葉を書き記した巻物を細かく切り、焼き捨てた時、全く同じもの書き記すことができるように預言者に霊感を与えた。(エレミヤ36章 この章には、書記を通して口述筆記していたこと、巻物に墨を使って書いていたこと、第九月(十二月頃)に暖炉の火が必要な程寒かったこと等、様々な詳細が書かれていて大変興味深い。)

 そしてバビロニア捕囚時代に破壊された神殿で仕えることもできずにいた祭司エズラは、ダビデやアサフによって書かれた多くの詩編を編集し、方形ヘブライ文字を取り入れ、モーセの五書にも適用した。

 また紀元前三世紀中頃から前一世紀間にギリシャ語に翻訳され、七十人訳聖書として、地中海沿岸の各都市に離散していたギリシャ語を話すユダヤ人の間で普及した。初期キリスト教徒はこの七十人訳聖書を読んでいた。テモテが幼い時から親しんでいたのはこの七十人訳であり、使徒パウロは、自らの手紙の中の旧約聖書の引用に、一部この七十人訳を使っている。

  冒頭の聖句の中で使徒パウロが語っている「聖なる書物」とは、直接的にはこのような経緯をたどって成立した書物のことであり、「神の霊感を受けて書かれた」とは、人間の様々な干渉があった千四百年近い歳月と、そのすべてを司っていた神の主権的介入が含まれたものなのである。もし神の主権的介入を信じなかったら、どのようにして現存しない石の板にヘブライ語でもない言語で書かれた内容が、正確に伝えられ、千年後にギリシャ語で翻訳されたと確信持てるだろうか。モーセに霊感を与えた神は、大祭司ヒルキヤを導き、預言者エレミヤや祭司エズラに霊感を与え、御自身の永遠の計画を成し遂げるために、真理を守ってこられたのである。

 そして紀元一世紀末頃、ローマ帝国によって完全に破壊されたエルサレムからヤムニヤ(ヤブネ)に移り住んだ律法学者やパリサイ人は、旧約聖書の正典として三十九巻の書物を長い時間議論しながら選び、七十人訳の中でヘブライ語原典のないものを除外した。こうして旧約聖書三十九巻の正典化が成立したのだが、もしこれらの過程における神の介入を信じなかったら、聖書の霊感すら成り立たなくないことになる。

 聖書の霊感に関する終わりのない議論に明け暮れるよりも、今聖書を与えてくださっている生ける神にその奇蹟に対して感謝し、書かれていることが心で理解できるように祈りつつ、御言葉と共に歩もう。そもそも神の霊なしで、聖書の一節でも正しく理解できるのだろうか。神の霊が私達の知性と心に光を与えることがなかったら、たとえ正しいことが書いてあったとしても理解できないし、間違った解釈をしたとしても間違いであると納得できないのである。

 生ける神は聖霊を通して、私達が聖書を開き、祈りの心で読む度に、私達の心を真理へと導いてくださる。聖書を手渡し、「自分で読んで見ろ。わかったらいい点つけてやる」という態度ではなく、まさに「助け主」として私達の横にいて、私達の導き、福音を解き明かしてくださるのだ。

ヨハネ16:12-14

12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 

13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 

14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。