an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリストが十字架にかけられた日(1)

 数日前のコメント欄において、イエス・キリストが十字架にかけられた日付に関して意見を求められたので、現時点での私の意見をまとめてみたいと思う。ただし、予め二つの重要な前提を明らかにしておきたい。

 まず第一に、聖書はイエス・キリストが地上で生まれた正確な生年月日を啓示していないし、死んだ年に関しても明らかにしていないという点である。そもそも「西暦」というコンセプトは新約聖書が書かれた時代には、存在していなかった。また太陰暦の暦法を適用するユダヤ暦に関しても、西暦358年までは、一か月の日数を月末に月を観察し次の一か月の長さを決定していた程であった。だから太陽暦である現在の暦法の概念で、当時の時間に関する概念を判断することはできないのである。福音書記者の中でとりわけ「記録性」の特徴が強く出ているルカによる福音書が、ある特定の時期を記録するために以下のような方法を使っているのは、そのような歴史的背景があったからである。

ルカ3:1,2

1 皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、 

2 アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。 

  第二の前提は、純粋に霊的なものである。つまり新約聖書の筆記者に霊感を与え、それぞれ福音書や手紙を書かせた聖霊は、時系列の明確な啓示に重要性を置いていなかった。もし正確な年数や日付を知ることが魂の救いや霊的成長に重要な要素であったなら、聖霊は必ずそれらのことを書き記させていただろう。むしろキリストの恵みの時代には、特定の日や月、季節、年、祭、新月、安息日などを尊守することに囚われることがないように、聖霊はあえてそのような啓示を記録させなかったと考えるほうが理に適っているだろう(人間の心には、たとい客観的な根拠がなかったとしてもこのようなことに寄り頼む傾向がある事は、『クリスマス』の例をみれば明らかであろう)。

ガラテヤ4:8-11

8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。 

9 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。 

10 あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。 

11 わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。  

コロサイ2:16,17

16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。 

17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 

 私達が日々交わりを持っている方は、死から復活した主イエス・キリストである。明らかに啓示されていないことについて聞けば、「あなたたちに必要なことは聖書の中に啓示してある。まずあなたたちに命じていることを実行しなさい」と言われるのである。

(2)へ続く