an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

荒野の奥で

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出エジプト3:1-6

1 モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。 

2 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。 

3 モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。 

4 主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 

5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 

6 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。 

  長年聖書と親しんでいると、慣れみたいなものが出てきて、新鮮な驚きの感覚を失う危険を皆持っているのでないだろうか。今日、この有名な箇所を読んでいて、ふと、このモーセの召命のスケールの大きい状況を、自分のちっぽけな霊的経験と知識に無理矢理当てはめていることに気づき、ハッとさせられた。

 エジプトの王子として当時の最高の教育を受けた一人の男が、人殺しの罪でエジプトから逃げ出し、ミデアンの荒野で羊飼いとなり、四十年も無為に過ごしていた。この時モーセは八十歳の老人であった。その一人の老人が、ミデアンの荒野の奥、ホレブ山、つまりシナイ山で生ける神とたった一人で出会うのである。

 周りには特筆すべきことは何もない。一人の人間の命がそこらに転がっている石と同じぐらいちっぽけに感じる荒野で、宇宙を創造した主なる神が一人の老人に語りかけている。しかも一本の燃える柴の木を通して。

 主なる神は、モーセに語りかけるのに彼を約束の地、「良い広い地、乳と蜜の流れる地」へとは導かれなかった。十二の泉と七十本のナツメヤシの木があるエリムまで導かれなかった。荒野の奥、何もないホレブ山に生えている一本の柴の前で語りかけられらた。

 この荒野におけるモーセの召命の箇所は、キリストの十字架による私達一人ひとりと生ける神との交わりを表している。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 

  神の御子イエス・キリストが十字架にかかり、律法の呪いを背負って死んで下さったその死は、人間のあらゆる義、つまり神の前で自分を正しいと誇るあらゆる幻想を取り除き、私達を一人ひとり「荒野」に導く。そこには、「エジプトの栄華」つまりこの世の繁栄の誇りなど存在しない。目の前にあるのは、「一本の木」、キリストの復活の命に燃え続ける十字架のみである。

 その霊的な場所で、一人ひとり生ける神に出会い、その方の聖さと魂への愛を知る。