an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

純真な目と貪欲な目

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マタイ6:19-24

19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。

21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。

23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 二十二節と二十三節の挿入は、普通に読んでいて随分唐突な印象を受ける。実際、ルカによる福音書では、全く異なる文脈の中に置かれていている(ルカ11:34)。十九節から二十一節は、「地上に蓄えられた宝」と「天上に蓄えられた宝」について語られているが、それは二十四節の自分の人生を捧げる対象としての「地上の富」と「神」との対比に繋がっていることは理解できる。

 二十二節と二十三節の他の日本語訳と比較してみよう。

文語訳

22 身の燈火は目なり。この故に目が澄んでば、全身あかるからん。

23 されど、汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや。 

新改訳

22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、

23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

新共同訳

22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、

23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

岩波翻訳委員会訳

22 体のともし火は目である。だから、もしあなたの目が純真なら、あなたの体は全体が輝いているであろう。

23 しかしあなたの目がよこしまなら、あなたの体は全体が暗闇であろう。だが、あなたの中の光が闇〔でしかない〕ならば、その闇〔の深さは〕どれほど〔であろうか〕。

塚本訳

22 目は体の明りである。だからあなたの目が澄んでおれば、体全体が明るいが、

23 目が悪いと、体全体が暗い。だから(天に宝を積まないため、)もしあなたの内の光(である目、すなわち心)が暗かったら、その暗さはどんなであろう。

 目が「澄んでいる」「健全」「純真」と訳されているが、英語訳だと「true, good, perfect, single」とある。混ざりものがない、純粋でシンプルな状態を指し、その意味でシングル、一つである。

 逆に二十三節の対句は、目が「悪い」「あやしい」「濁っている」「よこしま」と訳されているが、「ばらばらに壊れる」という意味ももつ。

 これらの慣用句表現は、ヘブライ語由来のもので、旧約聖書に何回か使われている。残念ながら日本語では伝わりにくいので英語訳を併記する。

申命記28:54(Young's Literal Translation)

The man who is tender in thee, and who is very delicate -- his eye is evil against his brother, and against the wife of his bosom, and against the remnant of his sons whom he leaveth,

あなたがたのうちのやさしい、温和な男でさえも、自分の兄弟、自分のふところの妻、最後に残っている子供にも食物を惜しんで与えず、

Ⅰサムエル18:9

(Bible in Basic English)

And from that day Saul was looking with envy on David.

(Young's Literal Translation)

and Saul is eyeing David from that day and thenceforth.

(新共同訳)

この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。

 箴言23:6

(Young's Literal Translation)

Eat not the bread of an evil eye, And have no desire to his dainties, 

(新改訳)

貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。

  つまりこの「目が悪い」とは、「目つきが悪い」とか「視力が低い」という意味ではなく、「妬み、貪欲、エゴイズムのために心を閉じている状態」「見ている対象と心が一つになっていない状態」を表現するヘブライ的慣用句なのである。

 ここで冒頭のマタイの文脈に戻ると、理解しやすいのではないだろうか。つまり「地上に蓄えられた宝」に対する貪欲によって、「天上に蓄えられた宝」に対して心が閉じてしまわないように注意しなさい、光の中に住む神に本来全てを捧げなければいけないのに、現実には心が一つになっておらず、地上の富に仕える事によって心が「ばらばらに壊れて」暗闇に留まってしまうことのないよう気をつけなさい、と警告しているのである。

 また自分の正しさや霊性を人と比較して、この地上における自分の義を建てることばかりを求め、天にある神の完全な義を慕い求めることをないがしろにする危険は、誰にでもあるのである。

コロサイ3:1-5

1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 

2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。 

3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 

4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。 

5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 

  四節で三回も「キリストと共に」と繰り返している。まさに「キリストから絶えず目を逸らさず」、「キリストと眼差しを一つにし」、「キリストに心を開き」、「キリストと一体となる」ことによってのみ、私達は天上の光の中に住み、キリストの無尽蔵の富を喜び、霊と真理をもって神に心から仕えることができるのである。