マタイ18:1-4
1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
弟子達は、「天国で一番偉い人」が目の前にいる幼な子のように「自分を低くして」、まさにその瞬間に自分達の目の前にいることを全く認識していなかった。もしその奇蹟を理解していたら、このような質問はしなかっただろう。
もし主イエスが立ち上がって自分自身を指し、「私が天国で一番偉いのだ」と言っていたとしても、偽りにはならなかった。しかし主イエスは黙って幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせ、天国に一番偉い人の模範として扱った。 「この幼な子のように自分を低くする者」。「私のように自分を低くする者」とは言わなかった。なぜなら、彼は言葉で表さず、行動で示そうとしていたからである。
主イエスはゴルゴタの丘で、人々の真ん中で十字架につけられ、恥辱と嘲笑の中に自ら低くし、律法の呪いと父なる神から見捨てられるという、罪人が陥るべき最も低い所に自ら降りて行った。
マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
しかし呪われた偽りの神の子として断罪され、十字架の上で息を引き取るとき、それでもなお彼は「神の子」としての自覚を捨てなかった。
ルカ23:46
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
まさに「天国で一番偉い御子イエス」が「幼子のように自らを低くしてくださった」、その遜った愛によって、信じる者が神の子とされる恵みを豊かに与えてくださったのである。
Ⅰヨハネ3:1-3
1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
私達は弟子たちのように「自分を高くすること」に気を囚われて、私達の目の前に備えられている「低さ」と「聖さ」に宿るイエス・キリストが見えなくなっていないだろうか。