an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ステパノの説教についての考察

 イタリアの都市は非常に古い歴史を持つところが多く、特にローマなどは2千年以上前の遺跡が、圧倒的な存在感をもって町の中に現存している。また、公共事業の工事などで地下を掘ると、ローマ時代の史跡や物品が発掘されることも決して珍しいことではない。複雑なのは、そのようなものが発見されるたびに、発掘調査を行わなければいけなくなるので、工事の計画が大幅に変更を余儀なくされることだ。そのような事情を知ってか、現場作業員が何かを見つけ、それを報告しないで廃棄したことでニュースになったことがあった。考古学の見地からしたら信じられないような貴重な発見でも、建設のプロジェクトに携わっている立場からすれば、厄介なものにぶつかってしまった、というところなのだろう。

 真理に対する探究心と、「聖書で聖書を読む」つまり「聖書の解釈をその聖書の中にある他の箇所で照合しながら行う」という基本的姿勢で聖書を掘り下げはじめると、いつか突き当たる「硬い石」が聖書の中にはいくつかある。それを自分の目的の遂行を邪魔する「厄介もの」と扱うか、それとも「貴重な発見」として丁重に扱うかは、本人の選択次第である。

 使徒行伝七章のステパノの説教も、その「硬い石」の一つである。私も信仰をもって間もない頃、何気なく聖書研究をしていて見つけてしまい、その扱いに随分戸惑ったことがある。尊敬する何人かに恐る恐る聞いてみると、「厄介なものを見つけてしまった工事現場の作業員」のような状況になったので、それ以来個人的な考察の範囲に収めることにしていた。しかし、最近考えるところがあり、同じような経験をしている信徒がいるのではないか、そのような聖書を愛する人のために共有しようと思う様になった。

 本題に入ろう。使徒行伝七章のステパノの説教の中で、以下の点は旧約聖書の記述と一致しない。

4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、 

14  ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。 

16 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。 

 

 四節に関しては、創世記の記述によると、アブラハムが約束の地を目指してカランを出発したのは、彼の父テラがまだ生きている時であった。

創世記11:26-31

26 テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ。 

27 テラの系図は次のとおりである。テラはアブラム、ナホルおよびハランを生み、ハランはロトを生んだ。 

28 ハランは父テラにさきだって、その生れた地、カルデヤのウルで死んだ。 

29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライといい、ナホルの妻の名はミルカといってハランの娘である。ハランはミルカの父、またイスカの父である。 

30 サライはうまずめで、子がなかった。 

31 テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。 

32 テラの年は二百五歳であった。テラはハランで死んだ。 

創世記12:4

アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。

  テラは七十歳の時に長子アブラムを生み、そのアブラムは七十五歳の時にハラン(カラン)を旅立ったということは、その時テラは百四十五歳で、息子と別れてから二百五歳で死ぬまで六十年間生きたことになる。

追記2 アブラハムが長男ではなく、末の子であるという説によれば、205-75=130で、アブラハムはテラが130歳の時に生まれた子である、と解釈することができる。詳しくはリンクを参照)

 

 また十四節に関して、「七十五人にのぼる親族一同」という表現をヤコブの息子たちの妻を踏めた数という可能性もあるが、疑問が残る数字である。(追記1参照

創世記46:26,27

26 ヤコブと共にエジプトへ行ったすべての者、すなわち彼の身から出た者はヤコブの子らの妻をのぞいて、合わせて六十六人であった。 

27 エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。 

出エジプト1:1-5

1 さて、ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。 

2 すなわちルベン、シメオン、レビ、ユダ、 

3 イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、 

4 ダン、ナフタリ、ガド、アセルであった。 

5 ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。 

申命記10:22

あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた。 

 

 そして十六節に関してだが、ヤコブが葬られた場所は、「カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にある洞穴で、アブラハムがヘテ人エフロンから買い取った」場所であった。

創世記49:29-32

29 彼はまた彼らに命じて言った、「わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。 

30 そのほら穴はカナンの地のマムレの東にあるマクペラの畑にあり、アブラハムがヘテびとエフロンから畑と共に買い取り、所有の墓地としたもので、 

31 そこにアブラハムと妻サラとが葬られ、イサクと妻リベカもそこに葬られたが、わたしはまたそこにレアを葬った。 

32 あの畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々から買ったものです」。 

創世記50:12,13

12 ヤコブの子らは命じられたようにヤコブにおこなった。 

13 すなわちその子らは彼をカナンの地へ運んで行って、マクペラの畑のほら穴に葬った。このほら穴はマムレの東にあって、アブラハムがヘテびとエフロンから畑と共に買って、所有の墓地としたものである。 

 マムレはヘブロンの近くにあり、シケムとは全く別の位置にある。おそらく使徒7:16は、創世記33:19のことを言及していると思われるが、その土地にはヤコブではなく、ヨセフの骨が埋葬されたと記録されているのである。

ヨシュア24:32

イスラエルの人々が、エジプトから携え上ったヨセフの骨は、むかしヤコブが銀百枚で、シケムの父ハモルの子らから買い取ったシケムのうちの地所の一部に葬られた。これはヨセフの子孫の嗣業となった。 

 

 このような不一致をどのように取り扱えばよいのだろうか。聖書の信憑性を疑う人たちは、真っ先にこれらの箇所を用いて聖書を批判するであろう。それもまた自由であり、神が聖書にそのような部分があることを許されたならば、触れてはいけない領域としてタブー化するのは誠実ではないだろう。多くの人が試みたように、強引な説明をこじつけるのも、その他の重要な解釈の信頼性まで失うことになるので、最善の解決策とは言えない。

 私は聖書自身がもっている前提を踏まえたうえで、ステパノの説教をそのまま受け入れればいいという解釈に辿り着いた。つまり「聖書は全て神の霊感を受けて書かれたものであり、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」ということである。

Ⅱテモテ3:16-17

16  聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 

17  それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。 

 その神の霊感によって、神の意志や考えが人間の口を通して、人間の言葉によって書かれているが、聖書の中には神の預言だけでなく、サタンの言葉や信仰の道から迷い出てしまった人のそのままの言葉も多く含まれているという事実を忘れてはならない。例えば、伝道者の書は、ソロモン王が老齢になって書き残したものだが、その書の大半の言葉は彼の虚無感から吐き出された言葉であって、信仰による言葉ではない。しかしこの書は、「神から離れて生きる人生の空しさ」を明確に伝えているという意味で神の真理を語っているのである。十字架の死を預言したイエス・キリストに対して咎めの言葉をぶつけたペテロは、主イエスにサタンと呼ばれてしまったが(マタイ16:22,23)、そのペテロの言葉は「肉にある者は十字架に敵対する」という真理を明確に啓示しているのである。

 ステパノの場合をどうだろうか。使徒行伝は彼について、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」「ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた」  「彼は知恵と御霊とで語っていた」(使徒6:5,8,10)と証ししている。しかし聖霊に満たされた人間が、言葉の上でも行動においても間違いを犯さないという主張は、聖書の中に存在しないのである。

ヤコブ3:1,2

1 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。 

2 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 

Ⅰヨハネ1:8-10

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 

 「完全なひと」はイエス・キリストのみである。だから「人間の無謬性」を押し付けるような教えやシステムは、全く信頼に値しない。たとえそれが素晴らしく霊的な人間であろうと、尊敬に値する人間であると社会的に評価を受けていようとも、である。

 そのような大前提があるからこそ、聖霊はステパノの説教をこのような形で書き残させたのではないだろうか。また同じような理由で、使徒パウロの説教を聞いたベレヤの人々が「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」という記述を、使徒行伝の筆記者ルカはわざわざ挿入したのではないだろうか。もしルカが「使徒の無謬性」を信じ、強要していたとしたら、このような表現は決して書かなかっただろうし、パウロとバルナバが激しい議論をした記録さえ残さなかったはずである。そしてこの前提は、神が御自身の啓示を人類に書き残すのに四十人以上の筆記者を用い、所謂「正典化」の決定を筆記者の手によってではなく、時間の流れと後の信仰者の判断に任せたということにも関連してくると私は考える。 

 しかしもう一つ、見落としてはならない大事な点は、Ⅱテモテ3:16「 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」 という前提の後半部分にある、「聖書の目的」についてである。ステパノの説教は、なぜ「旧約聖書の記述との不一致」を残したまま、伝えられたのだろうか。筆記者ルカは検証できなかったのだろうか。それとも聖霊には他に目的があったのだろうか。

 ステパノの説教を聞いた人々が、彼を石で撃ち殺そうとしたのは、ステパノの説教の中に不正確な詳細があったからではない。また、もしステパノが旧約聖書の記述通り語っていたら、人々はステパノに対して憎しみを露わにし殺すことはなかったのだろうか。彼らがステパノを殺そうとしたのは、ステパノが神の右に立つキリストの栄光を見たから、つまりイエスがメシヤであることを大胆にユダヤ人の前で証ししたからである。また、ステパノの説教の詳細における不正確さは、キリストとの霊的交わりを損なうことにもならなかった。

 勿論、これらの考察は、私達の聖書の知識や伝道におけて怠惰や誤りがあってもいいと主張しているのでは決してない。ただ、「完全な知識」を自分や他人に課して、消極的になり伝道の機会を失ったり、所謂「聖職者」にその務めを委ねてしまってはないだろうか、という思いと、「聖職者」や「説教者」の言葉を絶対化し、検証をすることを恐れたり怠ってはいないか、という心配があること、そして証しの本当の目的は「イエス・キリストが救い主である」ということを全生命を賭けて伝えることであって、私達がその目的に従うとき、聖霊は豊かに力を与えててくださり、私達の不完全さを十分に補って下さる、という励ましを伝えたかったからである。

 そう、すべては恵みによるのである。

エペソ2:2-10

2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。 

3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。 

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、 

5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― 

6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。 

7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 

8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 

9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 

10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 

 

追記1(2018年1月12日)

La versione Greca dei LXX - Il Testamento di Dio

 こちらのサイトによると、ステパノはLXX訳の出エジプト1:5から引用しているように思えるが、実はクムランの第四窟からから発見された4Q1=4QExaという写本(『サマリヤ五書』と類似したヘブライ語で書かれており、紀元前二世紀頃の時代のものと推測されている)があるが、そこにはLXX訳同様、75人と記されているのである。

 紀元前ということは、初代キリスト教会の影響を受けたことは考えられない。つまり、現在ヘブライ語旧約聖書の主要な底本とされているマソラ本文とは異なるヘブライ語の写本が、一世紀の初代教会時代に存在しており、実際に読まれ、引用されていたことを意味している。

Exo 1:5

Ιωσηφ δὲ ἦν ἐν Αἰγύπτῳ. ἦσαν δὲ πᾶσαι ψυχαὶ ἐξ Ιακωβ πέντε καὶ ἑβδομήκοντα

 

追記2(2018年5月3日)

 ステパノの言及を「アブラハム末の子説」で調和させようという試みもある。