兵卒としての自覚
我が家の窓からは、見下ろすかたちでイタリア陸軍の兵舎が一望できる。そこには大きなサッカー場があり、2,3年前までは毎日午後になると、兵士たちがチームに分かれてサッカーをするのが恒例であった。あらゆるスラングや罵声が飛び交う白熱したゲームに苦笑しながらも、「何だかんだ言って、イタリアは平和な時代に生きているのだな」と実感したものだ。しかし、それが一変し、同じグランドで銃を使った攻撃訓練(勿論、実弾ではないが)が、毎日のように見られるようになった。統率がとれているとは言い表し難いぎこちない動きに、戦争が実際起きないことを祈ったものだが、それと同時に彼らが「兵士」として自分たちの人生を捧げていることを垣間見たのであった。
平和な時代の仲間同士の午後のひと時の「ゲーム」であるなら、「参加しない」という選択肢もあり得る。しかし実際の「戦争」においてはそのようなわけにはいかない。
平和な時に兵士であることを自覚し備えない者は、戦いの時に兵士であることすらできない。本当に戦ったものだけが、勝利の本当の喜びを味わうだろう。
パウロがテモテに書き送った言葉を想い出す。
Ⅱテモテ2:1-7
1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
Ⅱテモテ4:6-8
6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。