an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

アレクサメノスの神

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ローマのパラティーノの丘にあった当時の奴隷学校の壁に刻まれている落書き。

 西暦200年頃のものと言われている。十字架につけられたロバらしきの頭を持つ人物の前で、一人の男が立っている。そして「ALEXAMENOS  SEBETE  THEON アレクサメノスが神を拝んでいる」と書かれている。おそらくイエス・キリストを信じたアレクサメノスという奴隷を同じ学校に通っていた奴隷仲間が嘲笑して書いたのだろう。

 しかしこの落書きは、書いた本人らの意に反して、千八百年後に生きるクリスチャンに、アレクサメノスという一人の信仰者のイエス・キリストに対する信仰の証しが、如何に聖書的であったかを暗示している。

Ⅰコリント1:21-24

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

ガラテヤ5:11

兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 

 アレクサメノスは、十字架につけられ死刑に処された「愚かな神」を信じる「愚か者」と罵られることを恐れず、その「愚かさ」を世の知恵によって美しく飾ることはしなかった。迫害を避けるために「十字架のつまずき」を取り除こうともしなかった。神に愛され、神に召され救われた者として、十字架につけられたイエス・キリストのうちに神の力と知恵を見出していたからである。 

 毎朝通る道沿いにカトリック教会がある。朝からちらほらと人の出入りする姿を見かけるが、毎日前を通っているうちに何人かの顔を覚えてしまった。たまに、いつものように朝教会の中に入って祈りを捧げる時間がとれなかったと思える人が、教会の前を通りながら一瞬、胸の所で小さく十字架を切り、そして足早に通り過ぎるのを見かける機会が何度かあった。

 また別の機会には、同じ教会の前を歩いていたとき、前の道路を車で通っていた女性が教会の前を通り過ぎる瞬間にハンドルから片手を離し、同じように胸のところで十字を切っていたのを見たこともある。

 どこのカトリック教会の建物の中に入っても、必ず美しく装飾された十字架や木彫や大理石の磔刑像があり、人々はその前でキャンドルの火を点けたり、跪いて祈りを捧げたりする。

マタイ16:24

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 

 一人のクリスチャン(「キリストに属する者」「キリストに従う者」という意味)として、私達はどのような十字架を背負っているだろうか。「愚かさ」と「つまずき」が取り除かれた「日曜日のための十字架」だろうか。「自分の十字架」ではなく「自分のための十字架」ではないだろうか。そもそも本当に「十字架を背負う」という意味を理解して、それを背負っているだろうか。