読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

愛されて神の子となった人々

 先日、『「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て」の解釈』(http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/11/04/180545)において、創世記6:2の「神の子たち」が「セツの子孫で信仰を受け継いだ人々」であるという解釈の説明をした。その後、この啓示に関して引き続き考察して、キリストに関連する真理が示されたので共有してみたい(聖書は求める人にとっては誰にでも、正に無尽蔵の宝であり、枯れることなく湧きだす源泉である)。

 神の啓示を受け継ぎ、信仰によって歩むべき「神の子たち」が、美しく魅力的だからという表層的な理由で、神に対する畏れのないカインの子孫の娘たちを自分勝手にめとっていた。それを見て主なる神は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と宣告した。

 「人は肉にすぎない」。確かにアダムとエバが罪を犯したことによって、罪と死が人類の中に入ってしまった。しかしそれでもなお、セツの子孫は神の霊によって導かれていた。セツの子孫のエノクがその霊性の結晶であった。

創世記5:23,24

23 エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。 

24 エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。 

 しかしセツの子孫は、そんな霊的な状態、まさに「神の子」という立場から、徐々に神の意志に従わず自分勝手に生きる「肉にすぎない存在」となってしまったのである。確かにこの宣告により、寿命の大幅な短縮のみならず、非常に大きな変化が霊的な次元において起きた。大洪水以降、人間を指して「神の子」としている旧約聖書の箇所は、一箇所しかない。ヨブ記の記述も明らかに天使のことを言っている。

ヨブ1:6-8

6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。 

7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。 

8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。 

 「主の前」という表現が、霊的次元のことを語っていることは、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いて」きたサタンに対する問い「あなたはどこから来たか」からも理解できる。また、主なる神自身が「世界にヨブほど神を畏れ、正しいひとはいない」と誇っているにもかかわらず、ヨブは主の前の「集まり」には参加していないことからもわかる。

 唯一の例外と言った箇所は、詩編82篇である。

詩編82

1 アサフの歌

神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。 

2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ 

3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。 

4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。 

5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。 

6 わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 

7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。 

8 神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。 

 アサフは大祭司やレビ人(そしておそらく王や預言者も含まれていた)、所謂「神の言葉を託されて人々」をあえて「神々」と呼び、神の正しい裁きの前に立っているところをイメージしている。彼らは神の言葉を盾にまるで神のように振る舞っていたが、実際は正義によって民を導き治めていなかったからである。6,7節のアサフの言葉は、皮肉である。「あなたがたは、この世で神のように圧倒的な権威をもっていたとしても、所詮死にゆく人間に過ぎないではないか、『肉にすぎない』ではないか」と自分に言い聞かせているのだ。だからこそ、最後には神の正しい裁きを委ねているのである。この詩編は、同じアサフによって書かれた詩篇73篇と一緒に読むと理解しやすいかも知れない。

 実に強烈なのが、主イエス・キリストが「父なる神に遣わされた神の子」であるという啓示を頑なに受け入れず、イエスのことを殺そうとしていた律法学者やパリサイ人(彼らも神の言葉が託されていた人々であった)に対して、主イエスはこの詩編82篇を引用しながら、「自分が神の子であると宣言することが神を冒涜することにはならないこと」を証明していることである。

ヨハネ10:31-36

31 そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。 

32 するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。 

33 ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。 

34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 

35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない) 

36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。 

 主イエスが行っていた数々の奇蹟が、彼が父なる神から遣わされた御子であることを証明していた。それでも彼らは信じなかった。もし望むなら、主イエスはその場で頑なな律法学者の一人の上に、天から裁きの火を降り注がせることもできた。しかしそれは御子の思いではなかった。だから「神の言葉を託された人々」がよく知っていた詩編を引用して説得しようとしたのである。それにもかかわらず、彼らは御子イエスを受け入れず、殺してしまった。しかも託されていた「神の律法」によって。

ヨハネ19:6,7

6 祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。 

7 ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」。

 実際に永遠の時から御子として存在し、父なる神からこの世に遣わされたイエス・キリストが律法によって死罪に定められたことによって、だれも、どんなに善良で品行方正なひとでも、律法によっては「神の子」つまり神の前で神に喜ばれる人間として認められないことが明らかになったのである。

 しかし、律法が私達の罪のゆえに不可能としていたことを、御子は復活を通して可能にしてくださった。それは私達が律法を努力して守ろうとするからではなく、神を無視し自分勝手な道に歩み「肉でしかなかった」私達を、イエス・キリストの死と復活を通して神の子として見做してくださる、その父なる神の無限の愛によって可能となったのである。

ヨハネ1:12,13

12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 

13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 

ローマ8:14-17

14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 

15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 

16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 

17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 

Ⅰヨハネ3:1-3

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。 

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。