an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

交差したヤコブの手

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『ヨセフの息子たちを祝福するヤコブ』レンブラント作 1656年

創世記48:13-20(新改訳)

13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。

14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」

19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

  旧約聖書の登場人物の中でも、誕生から死に至る生涯の詳細が記録されている場合は限られており、モーセやサムエルに並んで、このヤコブの一生は実に波乱に富んで魅力的である。双子の弟として生まれ、穏やかな性格をもちながらも、母系の気質を受け継いで、よく言えば機転が利く、抜け目の無い性格であった(よくヤコブを聖書の記述以上に狡猾に脚色した説教を見聞きするが、レンズ豆の件にしてもイサクの祝福の件にしても聖書はヤコブを断罪しておらず、むしろ兄エサウの軽薄な態度を責めているのは、注目すべき事実である。レンズ豆の煮物の悲劇 - an east window) 

 兄の恨みを買い、命を守るために母親の兄ラバンの所に逃げ、そこで二十年近くこき使われ、愛するラケルと結婚するために、ラバンに騙されて好きでもなかった姉レアと先に結婚する羽目になる。やっとラケルと結婚できたはいいものの、二人の妻と二人のそばめの総勢四人の女たちの、嫉妬と競争心に燃え滾る「子づくり戦争」に翻弄されることになる。総勢十一人の子らを引き連れてカナンの土地に帰る途中で、末っ子のベンヤミンの誕生と引き換えに、最愛の妻ラケルを失うことになってしまう(ヤコブが七節でそのことを思い出しているのが何とも切ない)。そのラケルから生まれたヨセフを特別可愛がって育てたはいいものの、彼が十七歳になった時、ヨセフの兄たちの残虐な策略によってエジプトに奴隷として売られ、ヤコブはそんなこととは知らずにヨセフが死んでしまったと思って嘆き悲しんだ。結局三十年近く、最愛の息子が遠く離れて生きていることを知らずに過ごすことになる。その後、ヨセフは神の不思議な導きにより、牢獄に入れられた奴隷からエジプトの最高執政官としての地位にまで引き上げられ、父ヤコブをエジプトに呼び、感動の再会を果たす。

 このような波乱万丈の人生を通して、ヤコブを愛していた神は、この人物を高貴なスピリットをもつ神の僕として「精錬」した。このヨセフの息子らを預言的に祝福する場面における老齢の神の人の美しさは、画家レンブラントがインスピレーションを受けたのも十分納得ゆくほどである。

 ヤコブは、当時の慣例によれば長子の権利をもつ長男マナセの上に、「祝福の右手」を置くべきことをよく弁えていた。実際、ヨセフが父ヤコブを正そうとしたとき、「わかっている。わが子よ。私にはわかっている」と言って拒んだのである。ヤコブは次男エフライムを自分の右手の方に来るようには言わなかった。長男マナセを右側、次男エフライムを左側に残したまま、「手を交差させて」ヨセフの二人の息子らを祝福したのである。これは直接的な預言として成就し、エフライムの部族は後々マナセの部族より大きくなり、北イスラエル王国の十部族を代表する地位までになった。しかし神の人ヤコブの「手を交差させる」祝福は、直接的預言以上に深遠な啓示であった。「交差した」という原語は、「巧みに動かす、賢く行う」という意味も持ち、「知恵」という言葉と同じ語根を持つ。確かにヤコブはこの時、自分の機転によって行動したのではなく、神の知恵によって導かれていた。「交差した手」によって、長子の祝福が本来権利を持っていなかった次男エフライムの上にもたらされたのである。これは、御子イエスの十字架の死によって、本来神の祝福を得ることができなかった全ての異邦人の上に、神の子となる恵みがもたらされたことのシンボルである。

ヨハネ1:11-13

11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 

12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 

13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 

 息子ヨセフは、「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください」と言って、通例通り長男マナセを祝福させようとした。これは主イエス・キリストが、地上の宣教において、まずイスラエルの人々に神の国の訪れを伝えることを優先させたことのシンボルである。

マタイ10:5,6

5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。 

6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。

マタイ15:24

するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 

 本来、神の約束は彼らに与えられていたからでる。しかし、残念ながら御子は自分のところにきたのに、イスラエルの民は御子を受けいれなかったのである。そして御子を十字架に架けて殺してしまった。しかし主なる神は、すべてご存じの上で、永遠の計画を備えてくださっていた。それによって、救いの恵みの祝福が異邦人である私達の上に豊かに降り注ぐ結果となる。

 このプロセスは、使徒パウロが福音宣教の際に、度重なる拒否と迫害にも関わらず、どの街に行ってもまずユダヤ人に福音を伝えていたことにも共通する(使徒13:14;14:1;17:1,10;18:19;19:8)。そしてユダヤ人の拒否は、使徒パウロを異邦人宣教へとさらに押し出した。

使徒28:23-28

23 そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。 

24 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。 

25 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。 

26 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。 

27 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。 

28 そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。 

 しかし、今現在頑なになっているイスラエルもやがてメシヤの救いを受け入れ、教会と共に御子イエスの恵みの中に入れられることになると、聖書は預言している。

ローマ11:25-36

25 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 

26 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。 

27 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 

28 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。 

29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 

30 あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 

31 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 

32 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 

33 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 

34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。 

35 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。 

36 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。 

 ヤコブは、言い表し難い苦難の中にいたヨセフに生まれた二人の子らを、自分が祝福を授けたエフライムと一緒に、マナセも自分の子として「贖った」ことは感動的である。

創世記48:5

エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。

  ヤコブは、二度も繰り返して「わたしの子とします」と宣言している。キリストの十字架の血によって贖われた真のイスラエルとキリストの花嫁である教会が、御子にあって一緒に父なる神に全ての栄光と尊厳を返す日は近い。

 アーメン。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。