an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て」の解釈

創世記6:1-5

1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 

2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 

3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 

4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。 

5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 

 2節の「神の子たち」に関して、天使という説と「高貴な人」つまり神に対する信仰に持つ人々という、二つの説がある。まず「天使説」について考えてみよう。

 もし天使だとしたら、神の意図に反する選択をしているので、当然「堕天使」つまり悪霊ということになる。実際「めとった」という原語は、「自分勝手にめとった」というニュアンスを持っている。しかし、そうなると二つの文脈上の問題がでてくる。一つ目は、創世記の筆記者モーセに霊感を与えた聖霊は、悪霊らを「神の子たち(直訳:エロヒムの息子たち)」と呼んだだろうか、という疑問である。もう一つは、どうして悪霊らの勝手な行為で人の娘たちに産ませたことに関して、神は「人間は肉にすぎない」と言って嘆き、人間だけに責任を負わせなければいけないだろうか。

 また、天使の性質上の問題もある。御使いも悪霊も、物質的な肉体を持たない霊的被造物であり、男女の性別をもたず、めとったり、嫁いだりすることはない。

マタイ22:30

復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 

 悪霊が人間を誘惑するのは、その人間が美しいからだろうか。女性の外見的な美しさに魅かれるのだろうか。彼らの人間に対する行動の動機は、もっと霊的なものであり邪悪である。また霊的存在である悪霊と人間が一体になって生み出されるものは、「魂が悪霊に憑りつかれること」であって、人間の子供ではない。全ての命は創造主である神のみが与えることができるのであり、悪魔にはその権限は与えられていないからである。

 もう一つの「神を信じる人間説」を考察してみよう。これは、カインに殺されたアベルの代わりに生まれたセツの子孫のことである。セツの子エノシュの時代に、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」(創世記4:26)とある。しかし、エノシュから数えて八代目のノアに至るまで、信仰を受け継いだ数多くの子孫が沢山いたはずだが、箱舟に乗って救われたのはノアの家族の八人だけであった。セツの子孫でノアの親戚たちの多くは、ノアの口を通して語られた神の警告の言葉を信じなかった。これは「神の子ら」が神の意図に反して「自分勝手に」人の娘らを嫁いでいた、という言葉と合致する。

 それでは「人の娘たち」とは誰の事であろうか。神から離れて生きることを選択したカインの子孫である。それには文脈上の理由がある。「人の娘たちの美しいのを見て」とあるが、興味深いことに聖書がノアの妻の名やセムやハム、ヤぺテの妻の名前を全く書き残していないにも関わらず、カインの子孫のレメクの二人の妻アダとツィラ、そして彼らの娘ナアマに関しては、明確に記録されていることである。アダはヘブライ語で「飾り」を意味し、ツィラは「影、つまり守り」、ナアマは「愛らしさ」という意味をもつ。さらに、アダの息子ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖で、その弟ユバルは竪琴と笛を巧みに奏する全ての者の先祖、そしてツィラの息子トバル・カインは、青銅や鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。この個人名だけでなく仕事の説明まで書き残されているのは、「彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった」と記述との関連性を見出すことができる。勿論、レメクの息子たちがネピリムであったとは書いていないが、名を残すだけの特筆すべきもの、美しさや優れた能力を持っていた人々であった。そんな人の娘らに魅かれて、神のことを信じていたセツの子孫は彼女らと結婚していたのだ。この説によれば、主なる神の失望や憤りに関しても説明がつく。

 そして「悪霊によって子供を宿す」というホラー映画さながらの特殊な現象で、しかも大洪水によって大昔に滅ぼされてしまった人々のストーリーならば、確かに何の教訓もないが、「生きる神を信じる信仰者が、神を信じていない人々の美しさや能力に魅かれて信仰の道から逸れていった」ということが言いたかったのであれば、聖書全体において数多くの一致する教えがある。アブラハムがイサクの嫁をカナン人の中から選ばせなかったこと(創世記24:3)、イサクとリべカが、彼らの長男エサウがヘテ人の娘らを妻にしたことに対して悩み嘆いたこと(創世記26:34.35;27:46)、バアル・ペオルの悲劇(民数記25)、モーセの律法においてカナンの地の人々と縁を結んではならないと厳しく戒めていること(申命記7:1-4)、新約聖書においても同じ訓戒があることなどで、冒頭の記述の教訓としての存在意義が確かめられるからである。

Ⅱコリント6:14-18

14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 

15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 

16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。 

17 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触てはならない。触なければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。 

18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。 

Ⅰコリント7:39

妻は夫が生きている間は、その夫につながれている。夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえないが、それは主にある者とに限る。

ローマ12:1,2

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 

2  あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 大洪水をも「生き残った」根源的な人間の性質であるがゆえに、終わりの時に生きる私達も、この教えを心に刻み込んでおくべきである。

Ⅰヨハネ3:1-3

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。 

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。 

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

 

追記(2017/05/21)

 http://seishonyumon.com/movie/1908/において、中川牧師は以下のような疑問を提示している。

しかし、この解釈にはいくつかの問題点があります。アダムとエバの子孫たちを、セツの家系とカインの家系だけに二分するのは、不自然です。彼らから出た子孫は、もっとたくさんいたからです。

もう1つの問題点は、「神の子らが人の娘たちと結婚する」というのは、一方通行の結婚だということです。これをより詳しく説明します。「神の子ら」とは信仰のある人たちだとすると、信仰のある男性が、信仰のない女性(人の娘たち)とばかり結婚する、つまり、一方通行の結婚になるということです。結婚には、その逆もあるはずです。信仰のある女性が信仰のない男性と結婚することも、有り得るはずです。

以上のような理由で、私は第1番目の解釈には大いに疑問を感じています。

 しかし創世記4-5章を読むと、アダムの子孫を明らかに「カインの系統」と「セツの系統」だけに二分して啓示しているので、生物学的には「不自然である」と言えても、聖書の啓示に基づけば根拠のあることである。

 また創世記5章のアダムの系図(「アダムとエヴァの系図」ではない)を読むと、何度も「男子と女子を生んだ」という記述があるのもかかわらず、基本的に男性による子孫の系図として書かれているので、6章において女性の立場からの記述がないことは特に不自然ではないと言える。現代のメンタリティーからすれば偏っているように思えても、聖書の文脈上では一貫性を持っていると言える。

 だから中川牧師が個人的に感じている「疑問」は、聖書自身の啓示に基づいて十分に解消できるものである。