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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

幸いな人(1)詩編1

聖書 聖別(キリストとの交わり)

詩編1:1-6

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。 

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。 

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。  

 何と麗しく、慰めに満ちた御言葉だろうか。「モーセの律法に精通した学者」であり、祭司でもあったエズラ(エズラ7:6,11)は、百五十編にも及ぶ詩編を編集するにあたって、自らこの詩編を書き記し、神の御言葉に対する愛と喜びを全ての初め、そして基礎としておいた。

 エズラはバビロニア捕囚期にエルサレムから遠く離れた土地で生まれ育った祭司として、 相当な苦悩を経験したはずである。自分が仕えるべき唯一の神の宮が放置され、モーセの律法に従った礼拝が不可能な状態になっていたからである。イスラエルの神を知らないバビロニアの人々や、苦い経験によって信仰を捨てたり、退廃的になっていた同胞から批判や罵りを受けていたことが、同じくエズラが編集した詩編119編によっても暗示されている。そんな環境に生きていたエズラは、失意の中で自暴自虐に生きることも、表層的な慰めに満足することも拒み、ただ御言葉の学びの中に喜びと慰めを見出した。この詩編はそんなエズラの信仰の証しでもある。

 エズラはまず第一節によって、真の至福の明確で不可侵の境界線を引く。

  • 悪しき者のはかりごとに歩まず
  • 罪びとの道に立たず
  • あざける者の座にすわらぬ

 神がアダムとエバをエデンの園の中におかれたように、幸いな人はこの境界線の中に生きることに喜びを見出す。その中に神が、その人の全ての必要を満たす様々な実のなる木々を備えてくださったからである。

 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

  心を温める光の中にいるときも、魂を凍らす闇の中にいるときも、忙しく動き回る昼にも、眠れない夜にも、どんな時にも主の御言葉について思いを巡らし、その思いを「口ずさむ」(原義)ほど心を入れ込む。彼の心は、「悪しき者のはかりごと」や「罪人の空しい享楽」、「嘲る者の愚かな議論」を拒み、根拠のない希望や自己肯定の欺瞞を退け(キリストに基づかない希望や自己肯定は、根拠を特定できない失望感や鬱状態の種でもある)、ただひたすら主の掟に心を委ねる。その中で、その中でのみ、彼のことを愛し、自らの命を捧げてくださったイエス・キリストに留まり続けることができることを体験しているからである。

ヨハネ15:1-7(新改訳)

1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

  ぶどうの枝がぶどうの木につながっていることによってのみ実を結ぶことができるように、キリストの中にとどまり、境界線を超えない幸いな人は、キリストの命の霊によって命を得、人からの誉のためではなく、ただキリストの栄光のために実を結ぶ。

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

 「時が来ると」。「神の時」が訪れる前に、人間は「自分の時」を造ってしまう。そして今は、「人の時」が最も顕著に表れる「終わりの時」である。

ユダ17-19

17 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。 

18 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。 

19 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。 

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、 

21  神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。 

 このように「神の恵みを放縦に生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定」する不信仰(ユダ4)が、いにしえから定められた境界線を超えて忍び込んで来る時代だからこそ、先祖が立てた古い地境(箴言22:28)を心に留め、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望もうではないか。

 そのような人こそ、幸いである。