an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

万人救済の福音の検証(3)絶えざる心の痛み

ローマ9:1-3

1 わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 

2 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 

3 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 

ローマ10:1

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 

  もし全ての人が最終的に救われる、否、キリストにおいて「すでに救われている」というならば、この使徒パウロが言う「大きな悲しみ」や「絶えざる痛み」とは何なのだろうか。「自分が神に呪われ、キリストから離されても厭わない」という強烈な覚悟を、どの様に捉えればいいのだろうか。パウロは、自己陶酔的メシア症候群に病んでいたのだろうか。もしくは、かつて自分がそうであったように、自分の同胞が「律法の呪いの下」におり、キリストの福音に対して頑なに抵抗し続ける彼らの選択がもたらす裁きを知って、切実に心を痛めていたのであろうか。

 たとい今信じてなくて無自覚でも、律法の呪いから既に解放されている、もしくは将来「必ず」「もれなく」解放されるという人々に対して、なぜ救われた自分の魂を呪いの中に擲ってまで身代わりになる覚悟が必要なのだろうか。のどかな湖に浮かぶボートの上で眠っている人を「救助する」ために、水に飛び込もうという人はいるだろうか。そもそも「救助」など必要ないのではないか。ボートの上の人はやがて目を覚まし、自分でボートを漕いで戻ってくるだろう。しかし、滝が目前に迫っている急流の川で溺れている人をみたら、真っ先に飛び込んで何とか助けようとする人も出てくるだろう。

 「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている」「彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである」。パウロは、キリストにあって、聖霊によって、父なる神の御前で、救われていない同胞の救いのために祈りを捧げ続けていたのである。自分の救いのために命を捧げてくださったイエス・キリストの御前で、「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と告白していたパウロの魂の救済に対する切実さに、私達の心は震えないだろうか。心に刺すような痛みが走らないだろうか。「品よく」救いや神の愛について語れる自分にうんざりしないだろうか。

Ⅱコリント5:13-15

13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 

)へ続く