an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

万人救済の福音の検証(2)神の忍耐と人間の自由意志

ルカ13:6-9

6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。 

7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。 

8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。 

9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。 

  この喩話は、「悔い改めの必要性」と「悔い改めない場合に与えられる神の裁き」という文脈で主イエスが語った喩えである(13:1-5参照)。神は一方的な憐みによって、実を結んで当然だが実際は結んでいない木に対して、忍耐深く「ある猶予期間」を与えてくださる。そしてただその期間が過ぎるのを待っているのではなく、木の周りを掘り下げ、肥料をやり、あらゆる手を使って実を結ぶことができるようにしてくださる。木を切り倒すのを惜しむからである。しかし、そのような忍耐深いケアにもかかわらず、木が実を結ばない場合があることを知っておられる。「もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」。

 神は天地創造の前から自由意志をもつ被造物の創造の代価をご存じであった。自由意志をもつ被造物の創造が、創造主への従順と不従順の選択の可能性を生み出し、潜在的悪とその実際的選択による罪の可能性を予め知っておられた。そして、その罪を滅ぼすために、「御子の死」という壮絶な代価が必要であることさえも、完全に知っておられた。時が満ちて、御子は人となり、十字架の上で全人類の罪を背負い、身代わりとなって死んでくださった。そして三日後によみがえり、栄光の神の右に座されたのである。

 霊界の御使いは、悪霊どもも含めて、すべてその御子が十字架の上で「すべてが完了した」というのを聞いた。十字架によって罪は取り除かれ、死は力を失った。しかし御子の復活の後、サタンは滅ぼされただろうか。すべての罪びとが自分の罪を悔い改めただろうか。

 ここに神ではなく自分を選択する自由意志の本質的・絶対的悪性が啓示されている。神の愛の完全な啓示にもかかわらず、悪、そしてサタンは相変わらず存在し、神の愛を選択することを拒否し続けているのである。この神の愛に対する反逆の意志が存続しているからこそ、未だに全ての人が悔い改めに至っていないのであり、神の愛を知り、実体験しながらも、神から離れて行ってしまう人々がいるのである。

Ⅱテサロニケ2:9,10

9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、 

10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

 「万人救済の福音」を説く人々は、悪魔と彼の意志に従った人々が、新しいエルサレムの顕現の直前に、最後に「火と硫黄の池」に投げ込まれ、「永遠に」昼も夜も苦しみを受けるという啓示(黙示20:10,15)から、「神は愛です」と言ってあえて目を逸らす。神は十字架による贖罪という御自身の愛の啓示を通しても、サタンを取り除くことをしなかった。それをすることもできたはずである。しかし選択の自由を残されたのである。なぜならこの選択の自由こそ、愛が愛として存在できる大前提の一つであるからである。

黙示6:9-11

9 小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。 

10 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。 

11 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。 

 イエス・キリスト「以上に」善良で愛に満ちた人々は、「神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂」の御前における叫びを、「冷酷で愛がない」と裁くのだろうか。主イエスはこの叫びを軽んじない。むしろ彼らに白い衣を与え、「もうしばらくの間、休んでいるように」と慰めてくださる。

 「神のぶどう園の園丁」は、期限を定められた。その時が来れば何をすべきかもご存じである。 

 

)へ続く