an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

この世の杯

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 機会があると、時々目的もなくアンティークの雑貨屋を見たりするのが好きなのだが、今日は1925年から続いているという店のショーウィンドウに目が止まった。何気なく置いてあった切子ガラスのゴブレットに、フリーメーソンのシンボルが堂々と刻み込まれているではないか。思わず店主に尋ねたところ、ドイツから買ってきたもので、ロッジにおける「愛餐会」で使われていたものだと説明してくれた。一般に出回ることは珍しいらしく、300ユーロ近くする代物であった。

 この珍しいゴブレットのことを考えながら店を出た時、ある「器」のことをハッと想い出した。「器」と言っても切子ガラス製の器のことではなく、「福音の器」のことである。Caesar A.W.Clark(1914-2008)という黒人牧師のことである。このアメリカのダラスのGood Street Baptist Churchで58年間牧会した牧師は、「二十世紀で最も偉大な黒人説教者の一人」と言われ、また「説教者のプリンス」とも呼ばれ、非常に高い評価を受けていた牧師であった。

 しかしそれと同時に、Joseph Cox著の『Great Black Men of Masonry』によると、彼はフリーメーソンのスコティッシュライトの最高位、功労者に与えられる名誉階級である33位階であった(「黒い教皇」と呼ばれたアルバート・パイクと同じ位階であったということ考慮すると、彼の霊的次元での性質とその影響力を想像するのは難しくないだろう)。

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 クラーク牧師の葬儀の様子を撮影したビデオ(2:58に注目)を観ると、実際にフリーメイソンとして葬儀が執り行われているのが判る。

 エホバの証人の創立者チャールズ・テイズ・ラッセルやモルモン教の創始者ジョセフ・スミス、クリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディがフリーメイソンであったことは周知の事実であるが、所謂「伝統的」福音派教会にもフリーメーソンの思想が深く浸透している事実も真摯に受け止めなければければならない(残念ながらクラーク牧師のような例は、数多く知られてきている)。イエス・キリストが示す『愛』『兄弟愛』『自由』『真理』『平和』は、彼らが説く『愛』『兄弟愛』『自由』『真理』『平和』とは、言葉は同じでも意味が異なることを知る必要がある。

マルコ10:32-45

32 さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、 

33 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。 

34 また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。 

35 さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。 

36 イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。 

37 すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 

38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 

39 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。 

40 しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。 

41 十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。 

42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 

43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 

44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 

45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 

 「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲めるか」。弟子達はこの時まだ、この「杯」がどんな意味を持つか全く理解していなかった。信仰という衣を着た権力欲で心が覆われ、イエスの御言葉を受け入れていなかったからである。

 この世や人からの称賛は私達の自尊心をくすぐる。その「杯」は口に甘く、私達を広い道へいざなう。しかし、その杯の底には毒があり、その道は十字架の敵の道である。

ピリピ3:18-20

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 

20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

  イエス・キリストの贖いの杯を高く掲げ、十字架の友として最後まで歩もうではないか。