キリストにおいて(6)あなたに足りないことが一つある
Ⅰコリント13
1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
昨日、近所に住む一人の求道者の紹介で一度だけ会ったことがある人から、会ってゆっくり信仰の話をしたいと連絡が来たので、中国人のクリスチャンが経営する中華風すし店(!)で一緒に食事をすることになった。一度目に彼に会った時は、初夏の蒸し暑い日で、顔以外には全身に施されているのではないかと思える程、タトゥーが目立っていたが、セーターとジーンズ姿の昨日の彼はだいぶ印象が違った。彼は焼うどんと焼き餃子(!!)を注文しながら、いきなり永遠の命と神の裁きについて質問してきた。店主がクリスチャンということで、臆せずできるだけわかりやすくキリストの福音を伝えた。
何より印象深かったのは、一通り話を聞いた後に彼が語りだしたエピソードである。彼は最近までずっとドラッグ中毒であったが、ある日公園にいるときに、突然強烈な光を見て、今までの自分の人生が映画のように目の前に顕れ、そして何とも言えない平安と喜びに大泣きしはじめ、その経験以来、彼はぴったりドラッグをやめることができた、というのである。周りの人も驚く程、彼の生活は一変した。しかし、彼は「何か」が足りないと感じていて、その求道者の友人を通して連絡してきたのである。
その「何か」は、愛である。しかも、友情でも情愛でもなく、このコリント十三章で啓示されている「神の愛」である。夢や幻を見たり、人生を一変するような劇的な体験をすることもある。しかし、それらはあくまで「一番大事なこと」、「なくてはならない本質的なこと」を知るための指標に過ぎない。
ヨブ33:13-18
13 あなたが『彼はわたしの言葉に少しも答えられない』といって、彼に向かって言い争うのは、どういうわけであるか。
14 神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。
15 人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、夢あるいは夜の幻のうちで、
16 彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせ、
17 こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、
18 その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。
福音書にでてくる金持ちの青年のように、真面目に生活し、宗教的にも社会的にも模範として生きていても、イエス・キリストは人の心に決定的に足りないあの「何か」を知っていて、はっきりと語りかけてくるのである。
マルコ10:21
イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
「愛は寛容であり、愛は情深い」
「ねたむことをしない」
「愛は高ぶらない」
「誇らない」
「不作法をしない」
「自分の利益を求めない」
「いらだたない」
「恨みをいだかない」
「不義を喜ばないで」
「真理を喜ぶ」
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
「愛はいつまでも絶えることがない」
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである」
「このうちで最も大いなるものは、愛である」
聖霊は使徒パウロを通して、肯定表現と否定表現を織り交ぜながら、まるでデッサンをするかのように輪郭を引き、肉付けをし、奥行と動きを表現し、「一人の愛の人」を私たちの目の前に描き出してくれる。神の愛の啓示であるイエス・キリストを。彼こそ、私達の心になくてはならない方である。
ローマ5:6-8
6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。