申命記6:4,5
4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
レビ記19:17,18
17 あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。
18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
主イエス・キリストは、地上の宣教においてこの二つの聖句を何度も引用している。ある時は律法学者に対して、「律法全体と預言者がこの二つの戒めにかかっている」と教えた(マタイ22:35-40)。また他の機会には、「すべての命令の中で、最も大切な命令である」と断言している(マルコ12:28-31)。またルカによる福音書では、「永遠の命を受けるために実行すべき戒め」として啓示している(10:25-28)。
27節 新改訳
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
27節 文語訳
すると彼は答えて言った、「お前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くしつつ、お前の力を尽くしつつ、お前の想いを尽くしつつ愛するであろう。また〔お前は〕お前の隣人をお前自身として〔愛するであろう〕」
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」。私たちの感情も、知性も、力も、私達の存在すべてを尽くして主なる神を愛せよ、という戒めである。文語訳のニュアンスでは、主が真の神であり「あなたの神である」という大前提に対して、当然人間はその神を「愛するだろう」という、人間の自発的応答と責任に対する期待が表現されている。主なる神が、愛と恵みの神であるが故である。
しかし、生まれつきの人間、新約聖書が語る「肉にある人」は、神が望むように神を愛することができない。スピチュアルで宗教的な人間になることはできても、その思いは神を喜ばすことはできない。罪の故である。
ローマ3:10,11,18
10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
ローマ8:7,8
7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
Ⅱコリント2:14
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
主なる神を彼が望むように「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」愛するためには、人間は新しく生まれ変わり、「生まれながらの人」から「霊の人」に全てにおいて造りかえられなければならないのである。
ヨハネ3:1-8
1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
この新生の必要性の啓示は、一般的概念によるキリスト教と、聖書が啓示する「キリストにある生き方」を切り離す霊的剣である。この真理を否定したり、軽視したりすることもできるが、それによって神の真理が変わることはない。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」し、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」。そして「肉にある者は、神を喜ばせることができない」のである。
それでは、どうしたら人間は新しく生まれ変わることができるのであろう。日曜日に教会に通いはじめればいいのだろうか。しかしそれは新生の必要条件ではない。聖書を読むべきであろうか。こちらは必要であるが、十分ではない。なぜなら、キリストがどの様な方で、何をしてくださったか、どのような計画を持っておられるかを知らなかったら、健全な信仰は生まれ得ないからである。
ローマ10:14,17
14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
聖書の啓示の知識が伴わない信仰は、周りの意見や状況、自分の感情などに左右されやすく、体験主義や主観主義の迷路に迷い込みやすくなってしまう。神を知るには聖書の知識が必要である。しかし、それと同時に、福音書に登場するパリサイ人や律法学者のように、聖書を読み調べながらも、真理の知識にいつまでも到達できないこともあり得るのも事実である。
ヨハネ5:39-42
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
私達人間は、この律法学者たちのように聖書を探究し精通していようとも、聖書が啓示しているイエス・キリストのもとへ行き、新しい命を得るまでは、たとい他人から信仰や高い倫理観のゆえに誉を受けようとも、神を愛する愛をもっていないのである。だからこそ、聖書を読むのは重要だが、「キリストのもとへ行き、キリストを知る」という目的をはっきりと持って読むことが、必要不可欠な条件である。
信仰によって祈りの中でキリストのもとへいき、「あなたのことを愛しているつもりでしたが、私にはあなたが父なる神を愛したような愛が全くありません」「聖書を読んでいるけれど、心に中に神の新しい命を持っていません」「私はあなたのことを信じているつもりだけれど、心の中では実感できません」「知っていると思っているけれど、実際はあなたのことを全く知りません」「こんなみじめな私を助けてください」と告白することは、神が望む告白であり、聖書はそれを『悔い改め』と呼ぶ。
Ⅰテモテ2:4
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
Ⅱペテロ3:9
ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
自分が神を知らないこと、そして必然的に、その神を愛する愛もないこと、神を喜ばすことに全く無力であることを告白して神に祈るとき、十字架につけられた御子イエス・キリスが聖霊によって啓示される。それと同時に死から復活したキリストの命によって、あなたは全く新しい命、キリストの命に生まれ変わるのである。そのキリストの十字架によって、あなたの心も、思いも、力も、知性も十字架の死を通り、キリストと共に葬られる。そしてキリストの復活の命を通してあなたのすべてが新しく創造され、キリストがあなたの全てとなり、キリストのうちにとどまることに畏れと喜びと責任を見出すのである。
Ⅱコリント5:14-22
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
こうしてキリストにあって新しく造られた人は、ちょうどアダムとエヴァがエデンの園の中に働くように置かれ、主なる神と交わりながら、好きな時に好きなだけ園になる木々の実を食べることができたように、キリストのうちにとどまり、キリストの霊によって父なる神を「アバ、父よ」と呼び求め、キリストの愛によって父なる神と彼に造られたものを愛することができるようになるのだ。