an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生ける神との交わりの場所

詩編27:4-8

4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。 

5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。

6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。 

7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。 

8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。 

  イエス・キリストの御名によって祈るとき、私達が生ける神と交わりをもつ霊的場所とは、天上における至聖所である。私たちが、教会の礼拝堂にいようが、家の中にいようが、仕事場や見知らぬ土地にいようが、果ては監獄の中や流刑の地にいようとも、キリストの名によって生ける神と交わることができる霊的場所は、天上の至聖所以外ではない。

 旧約聖書にあるように、至聖所は神の幕屋の中で最も清い場所で、大祭司だけが一年に一度、しかも様々な清めの条件を満たし、贖罪の犠牲の血を携えたときだけ入ることが許されていた場所であった。そのすべては、天にある霊的現実の型であった。そして今、大祭司イエス・キリストの恵みによって、私たちは神が最も神聖と定めた「場所」で、ダビデが行っていたように、神に心を開き、喜びの声を上げ、賛美のいけにえを捧げ、歌い、主を褒め称え、主の御顔を尋ね求め、そして魂の守護を求めるのである。

 興味深い点は、ダビデは王ではあったが大祭司ではなかったという点である。彼は至聖所に入ることを許されていなかった。しかし、恵みの中に生きる私達同様、信仰によって「神が」その仮屋のうちに自分を潜ませ、その幕屋の奥に隠し、岩の上に高く置いてくださることを受け入れたのである。

 また、この時ダビデは迫害を受け、命を狙われ、荒野を彷徨い、洞窟に身を隠していた。

 12  わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。 

  しかしダビデは、天上の至聖所においては、敵も偽りの証しをする者も暴言を吐く者も、彼の神との交わりを邪魔することはできないことを知っていたのである。

 この真理は、私たちが困惑していることや心に平安がないことを、他人や外的要素の責任にしてごまかしてしまう誘惑にかられている時、私たちの心の目を開いてくれる。そう、誰も、如何なるものも、私たちの生ける神との個人的交わりに「穢れた手で」触れることはできないのだ。神がそのような「交わりの場所」に私達を導いてくださったのだから。

へブル10:19-22

19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 

20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 

21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 

22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 

 

聖書引用

口語訳聖書 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955