an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ソロモンの虚無感とキリストの愛

伝道者の書8:14,15

14 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。

15 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。

 聖書の六十六巻の中でも、「伝道者の書」は、その文脈の特殊性ゆえに解釈には特に注意が必要である。ダヴィデ王がウリヤの妻だったバテシバによって得た息子ソロモンは、若いころの遜った信仰から離れて行き、多くの異国の妻たちに惑わされて、イスラエルに数々の偶像崇拝を取り入れた。しかし老齢になり、自らの人生を振り返り、その空しさを嘆き悩み、書き綴ったのがこの「伝道者の書」である。その書の中でソロモンは、「神」という言葉を何度も繰り返し使っているが、まるで波打ち際の砂の上に書いた字のように、何度も何度も虚無感と儚い喜びの波に流し消されている印象を受ける。それでも最後には、神に対する畏敬の念をもつことがすべてであるという彼なりの結論に辿り着いている。そういう背景があるので、冒頭に引用した十五節などは、そのまま神の霊による教えとして解釈し、自分の人生に適用することは決してできないのである。この書は、霊的意味で「ダヴィデの子」であり、「平和の君」(ソロモンという名は「平和な」という意味である)である御子イエス・キリストの教えや行動と合わせて解釈すると、ブレのない理解が得られる。

 例えば、十五節に顕れているソロモンの心理は、終わりの時代に対するイエス・キリストの預言と並べて読んで見ると、理解しやすい。

マタイ24:12,13

12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。 

13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 「善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある」というような不義不法がこの世で幅を利かす終わりの時には、多くの人の心が空しさによって少しずつ「死んで」行ってしまう。正しいことをしても悪で報われ、愛を示しても無関心で報われてしまうと、失望を恐れる気持ちと不信感とで、心は閉じて行き、より自己保身的な生き方になってしまう。ソロモンが言うように、「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」、つまり「自分さえ幸せならいい」という、愛が冷え切った、非常に渇いた心になってしまうのである。

 経験から言うと、聖書が示す善悪を一通りわきまえている分、この誘惑は教会内での方が顕著であるのではないかと思う。勿論、表面的には取り繕ってはいるが、実は心の中では不信感で兄弟愛が冷めきってしまっている事は、決して稀なことではないはずだ。「自分さえ祝福されていればOK」「自分さえ認められていたらそれで十分」「面倒くさいことには巻き込まれたくない」という本音を、隠す必要も感じないぐらい、冷め切ってしまっている教会も少なくないかもしれない。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

  これは自分の宗教的殻の中に閉じて保身的に生きた者が救われる、という意味ではない。最後まで十字架のキリストから愛の力を受け取り、キリストが最後までご自分の者を愛されたように(ヨハネ13:1)、最後までキリストの愛に生き、その愛を示し続けたものが救われるという意味である。つまり、多くの失望と憎悪にもかかわらず、キリストの愛のために命を捧げたものが救われるのである。

ローマ5:8

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

  「明らかにしておられます」現在形である。そう、いまでも神は御自身の愛をキリストの十字架を通して明らかに示し続けておられるのである。

 今、十字架から神の愛を受け、そして最後まで耐え忍ぼう。

ヤコブ5:7、8

7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 

8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

 

聖書引用

新改訳 ©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

口語訳 (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955