an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

あるまじき忍耐(2)

Ⅱコリント11:16-21(新改訳)

16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。

17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。

18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。

19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

20 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。

21a 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。

 いくつかの日本語訳を読み比べてみたが、昨日の投稿『あるまじき忍耐(1)』で扱ったパウロの強烈な皮肉は、残念ながら日本語訳の聖書を読んでも十分に伝わらないではないかと思う。しかし、いくつかの訳の中で、塚本訳は言葉を補足することによってパウロの強い思いを伝えることに成功していると思える。

19 あなた達賢い方々は、喜んで馬鹿者どもを我慢しているからだ。

20 実際、だれかが(来て)あなた達を奴隷にしても、だれかが(使徒だからと)あなた達を食いつぶしても、だれかが巻き上げても、だれかが横柄であっても、だれかが(「黙れ!」と)あなた達の横っ面を張っても、あなた達は我慢しているのだ!(見上げたものだ。)

21a (わたし達はあなた達に弱いと言われる。)面目ないが、わたし達は(そんなことをするにはあなた達に対しあまりに)弱かったと、わたしは(正直に)言わねばならない。

  塚本訳やイタリア語のいくつかのバージョンと比較すると、新改訳や口語訳はとても「上品」で、パウロの真理に対するパッションやコリント教会に対する強烈な愛は、伝わり難いかもしれない。第二コリントの手紙の直ぐ後にある、ガラテヤ人への手紙を通読すると、それらの要素を理解する手助けになると思うので、是非併読して実感していただきたい。