an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

乙女の務め

使徒26:24,25,28,29

24 パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」。 

25 パウロが言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。 

28 アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。 

29 パウロが言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」。 

  牧師や教会のスキャンダルによって、人々は「洗脳」や「マインド・コントロール」に非常に敏感になっている。言うまでもないことだが、所謂聖職者の主張を無批判に受け入れることが信仰なのではない。

Ⅰコリント14:20

兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。 

 この地上においては、完全な教会や牧師、教師など存在しないので、どのような発言や行動に対しても「ベレヤ式の検証」は絶対に不可欠である。

 使徒17:10,11

10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。 

11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 

  ベレヤの信徒たちは、使徒パウロの教えに対して、「素直に心から教えを受け入れ」ていたが、それと同時に「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べ」るという検証を欠かすことはなかった。

 この「聖書を基に検証する」という大切なプロセスを怠ると、判断基準が人間の常識・良心・独断・偏見になってしまう。明らかに稚拙な偽りの教義に対してだけではなく、自分の意見とは異なる意見や、自分の罪を指摘し悔い改めを迫る「都合の悪い」言葉に対してさえも、「カルト的」「洗脳」「マインド・コントロール」「律法主義的」という定義を安易に当てはめることによって、自己防衛し拒否してしまう危険が潜んでいるのである。聖霊の力によって語り迫ってくる真理に対して、自分の良心や判断力を基準に、フェストやアグリッパのように慌てて「心の壁」を建ててしまうのだ。

 人間の心は、元々神の霊によって造られ、今もその基本的要素、知性、記憶、良心、感情などは変わらない。しかし堕罪以来、それらのすべてが罪によって穢れ侵されてしまっている。そのような心にとって、福音は「愚かなもの」「つまずきをあたえるもの」として判断されるのである。

Ⅰコリント2:14

生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。

Ⅰコリント1:18

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

  だからこそ、救いによって新しく生まれ変わることと、真理による絶え間ない聖化が必要なのである。

 特に救いを既に受けた信徒の知性は、「狡猾なへび」の一番の標的であることを忘れてはならない。スキャンダルを与えた牧師や教師も、初めは聖書に忠実であろうとしていた働き人であったのでないだろうか。それが徐々に「初めの愛」から離れてしまったのである。

黙示2:1-7

1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。 

4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。 

5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。 

6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。 

7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。 

 エペソの教会は、偽使徒の働きに見抜き、その攻撃に忍耐して抵抗していた。またニコライ宗の人々のわざに対して同調することもなく、むしろ公に反対していた。しかしそれと同時に、キリストに対する初めの愛から離れてしまっていたのだ。

Ⅱコリント11:2,3

2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 

3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。

 「乙女」が過去の苦い経験から、男性不信に陥ることは避けられないことかもしれない。自分を誑かそうと狙うものを警戒し、拒否するのは当然である。しかしそれと同時に、自分を本当に愛している「婚約者」の声に心を開き、聖書を通して、彼をよりよく知り、彼に対する愛を守り育てなければいけない。

 これは、終わりの時を生きる、全ての信徒にむけての警告である。