an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

遣わされた者としての自覚

ヨハネ20:21

イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 

 「自分がこの世に遣わされている存在である」という意識は、信者の存在そのものを根底から革新する力をもっている。死後の救いという意味における永遠の命ではなく、一瞬一瞬がこの地上における御子キリストの命の顕現であるという事実を信じ、そこに安らぐとき、私たちの生のすべて、ごく日常的なことから解決不可能に思える問題まで、すべてがそれまでとは全く異なる様相を呈するのだ。まさに「新しい創造」である。

 Ⅱコリント5:14-17

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 

16 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 

  それはキリストの救いを受け入れた瞬間にはじまり、日々革新し続ける聖霊の働きである。

 「わたしもまたあなたがたをつかわす。」キリストがわたしたちを遣わすゆえ、わたしたちの生活のすべては、キリストになるのである。

ピリピ1:20,21

20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 

21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。 

  個人的野心や達成感、またそれに付随する失望や虚無感など、神の永遠の計画の前では、ひどく色褪せて稚拙なものに見えてくる。