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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

カインのしるし

いにしへからの教訓 聖書による検証 戦争とキリスト者

創世記4:8-16

8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 

9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。 

10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 

11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 

12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 

13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。 

14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。 

15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。 

 現代的な用法、特に英語圏においては、「カインのしるし」という表現は「犯罪者としてレッテルを張られた者」と同義語になっているが、実際に聖書の記述を読んでみると、全く異なる意味があることがわかる。教義や儀式、慣習の範囲でよくあるように、一般的にキリスト教的で聖書を起源にしていると言われていることが、実際には聖書の内容とずれていたり、変質したりしていることの一例である。

 主なる神がカインに一つのしるしをつけた理由は、明記されている。「主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。」主なる神は、アベルを殺したカインに対して、だれも報復することがないように、「保護のしるし」を残されたのである。決して「犯罪者のレッテル」ではなかった。

 「報復の念を抑制することができた神のしるし」とは、いったいどのようなものだったのだろうか。だれからでも識別可能で、復讐を思い留まらせるしるし。聖書はその詳細について明らかにしていない。私達が知る必要がなかったからだろう。否、今やもっと優れたしるしが、私達には与えられている。イエス・キリストの十字架である。勿論、首に掛けたりするアクセサリーやシンボルのことを言っているのではない。シンボルにはそのような力は無いからである。それは信じる者の心の刻み込まれた十字架で、その十字架の力によって、まず信者の心が報復という悪の連鎖から解放されるのである。

コロサイ3:13

互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。

ローマ12:17-21

17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 

18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 

20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 

21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい 。 

  十字架の力によって造りかえられ、悪をもって悪に報うことをしない信者は、この世にとってのしるしであり、悪の連鎖を断ち切る善の剣である。

  カインは、唯一の弟を殺した。その人類史上初めての人殺しの罪に対して、神は直接的な裁きを下さなかった。むしろ憐みによってカインを赦し、さらに彼を報復という強迫観念(カインは「わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」と言ったが、彼はその時点で自分の両親が報復するとでも思ったのだろうか。それとも、後に生まれてくる自分の兄弟から報復を謀るものが出てくると思ったのだろうか。)から解放するため、一つのしるしを与えた。

 しかしカインは、その自分に対する神の憐みを理解していなかったのではないだろうか。実際、カインの子孫レメクは、報復の霊だけを増幅した状態で受け継いでいたのである。

創世記4:23,24

23 レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。 

24 カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。

 「 わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す」。原文やイタリア語の翻訳では、新改訳のように「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した」と完了形となっている。レメクは報復の奴隷として捕えられ、自分に対する報復の恐怖は頂点に達していた。だからこそ「レメクのための復讐は七十七倍」と語ったのだった。しかし、レメクは憐みの神の正しい「報復」を度外視していた。レメクの世代に、神は大洪水によって全地を裁き、そこから救われたのはノアの家族八人のみであった。

 旧約聖書を表面的に読み、一部の記述を例に「旧約の神は残酷」と非難する者がいる。しかし、同じ旧約聖書の中に初めから散在している愛と憐みの啓示に関しては、決して言及しない。「カインのしるし」と「ノアの大洪水」で解るように、主なる神は憐み深く、忍耐に富み、罪を赦す恵みの神であると同時に、その恵みを軽んじる者には、裁きによって報いる神である。

 またよく「目には目、歯には歯」という一節だけを引用して、主なる神が報復を命じている様に誤解している者がいるが、この「カインのしるし」と同様、実際に聖書をよく読めば、誤解であることがわかる。

出エジプト21:22-27

22 もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。 

23 しかし、ほかの害がある時は、命には命、 

24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、 

25 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。 

26 もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。 

27 また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。 

 この個所は、加害者が被害者に対して課せられていた賠償の義務について書いてある。賠償は被害に相応していなければならなかった。そして主語は加害者である。つまり、加害者が被害者にもたらした害に相応するもので「償わなければならなかった」のであって、被害者が「相応の報復をすべき」とは教えていないのである。主イエス・キリストは当時すでに存在していたこの節の「報復の解釈」を正し、善でもって悪の連鎖を断ち切る教えを啓示している。

マタイ5:38-42

38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 

39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 

40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 

41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 

42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。 

 これらの教えを前に自分の正しさを誇れる者など一人もいない。私達ができることは、ただキリストの御前に跪き、十字架の力と愛を懇願するだけである。