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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教会の本質―マタイ18章の考察(3)

教会

マタイ18:15-17

15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 

17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 

 この個所は、キリストにある交わりが単なる人の集まりではなく、罪の赦しと和解という神が備えられた土台の上に立つ、霊的な交わりであることを啓示している。しかもその繋がりは感情的で不安定なものではなく、受け身体質の閉鎖性とは程遠い、とても秩序があり、しかも極めて積極的なプロセスを伴う。その積極性は、11節「人の子は、滅びる者を救うためにきたのである」と14節「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」という神の憐みが動機としてあるからである。だから「行って・・・忠告しなさい」と命じているのであり、マタイ5:24にある「まず行って」と共通する「遜りを伴う積極性」である(参考 http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/19/140557)。

 新共同訳やKJ、NIVなどは、異本にある「あなたに対して」という特殊性を加え、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と訳している。つまりあるクリスチャンが自分に対して罪を犯したら、その兄弟が謝りに来るのを待つのではなく、自ら行って忠告しなさい、と言っているのである。これは私達の自負心や正義感を粉々に砕く教えである。「なんで私から和解の手を差し伸べなければいけないのか」「罪を犯したのはあっちだ」色々な思いが心に浮かんでくる。多くの場合、「行って・・・忠告する」のではなく、「待っていて・・・愚痴る」「放っておいて・・・噂話する」というのが現実ではないだろうか。

 罪を犯し、神の赦しを必要としているのは、「わたしの兄弟」であり「あなたの兄弟」である。そしてこの兄弟と同様に、私もあなたも神の赦しを絶えず必要とする存在である。罪の中に生きていた私達の所へ、イエス・キリストが来てくださった。ゆえにわたしは「行って・・・忠告する」責任を持っている。

ガラテヤ6:1

兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。

 「彼とふたりだけの所で忠告しなさい」「柔和な心をもって、その人を正しなさい」。不特定多数の中の個人は、集団に責任転嫁し強気になる傾向を持つ。陳腐な例だが、「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」というのは、そんな一面を端的に表している。しかし個人的な対話は、自省を伴うより誠実な姿勢を必要とする。「忠告しなさい」という命令は、「諭せ」「さとしなさい」「責めなさい」「忠告をしてやりなさい」「諌めよ」とも訳されている。いずれにせよ、神に対する畏れを土台にした柔和な心がなければ、逆に兄弟を躓かせることになってしまう。だから罪を犯した兄弟と同様、祈りによって聖霊の力と導きを求める必要がある。

  「もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」そのような祈りによって神の御前に和解が成立したときの交わりは、まさに地上で神の国を実感できる比類なき経験である。失われた一匹の羊を見つけた羊飼いの喜び、天使の喜び、そして三位一体の神の喜びに触れる瞬間と言える。

(4)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/08/03/103712