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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教会の本質―マタイ18章の考察(1)

 マタイ18:1-5

1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 

2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 

3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 

4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 

5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

 「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。弟子たちの関心は、天上の栄光の世界、しかもその頂点に向いていた。しかし、イエスは彼らの目線を引き降ろし、水平方向よりさらに下、たった一人の小さな子供に注目させた。イエスは十二使徒の一人を選ばなかった。病人を癒す権限が与えられ、宣教に遣わされた七十人の弟子たち内からも選ばなかった。イエスと弟子たちに仕え、追従していた女性たちからも選ばなかった。たった一人の名も明かされていない子供を選び、人びとの真ん中に立たせた。

  1. 明確な方向性をもった悔い改め。神の国に入るための不可欠な条件:「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」
  2. 遜ることの重要性:「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」
  3.  キリストにおける寛容性。キリストの臨在の不可欠な条件:「だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」

 三番目の教えは、交わりという観点において決定的な条件である。なぜなら、現実的に「自分は救われたい」という願望のゆえに遜り、「霊的に偉い人になりたい」という願望のゆえに自分を低くしようとするものはいるが、「小さく低いものをキリストのゆえに受け入れる」という条件は、巧みに抑え込まれ隠された自負心を鋭く突くものだからである。たといキリストの中に隠れても、心の中にこの自負心が根強く居座っていることは、正直なクリスチャンならば誰もが認めることである。その自負心をキリストに委ねるためにも、三番目の条件は不可欠なのである。これは信者の交わり、つまり教会の本質的役割の一つである。

 この条件をないがしろにすると、教会は独善的になり、死んだ蠅が入った香油(伝道10:1)となり、ラオデキヤの教会のようにキリストに嘔吐感をもたらす存在になってしまう(黙示3:14-22)。つまり、憐みによってキリストの中に何とか留まってはいるが、キリストはその交わりの外に追い出され、不在であるという矛盾に満ちた存在になってしまう。

(2)へ続くhttp://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/31/204734