an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

キリスト教は趣味?

 「キリスト教は本質的に何の影響をもたらさず、一つの趣味に過ぎない」と批判する人がよくいる。大概、個人的に起きたネガティブな経験に基づいた意見なので、表層的な反応は百害あって一利なしである。

 まず「キリスト教」という大雑把な概念を対象に批判する場合、その批判する人に必要なのは、「キリスト教の正しい理解」ではなく「生きているキリストの啓示」である。だれも十字架につけられたキリストを前に「あなたのしていることは、趣味に過ぎない」とは言えないからである。もし意識を持ってそれを言う人がいれば、聖霊に言い逆らう罪を自覚しているはずなので、罪の赦しの可能性を自ら閉じてしまっているわけで、そこに救いの希望はない。しかし多くの場合、キリストが払った代価を個人的に知らないが故に、人間は知らないことを罵ってしまうのである。

 しかしよく考えてみると、「趣味」とはなんであろうか。仕事と違って誰かに強制されることもなく、経済的報酬を目的とはしておらず、完全に個人の自由意思によるものである。明確な動機を説明できないが、心の奥に感じるパッションによって一つの趣味を長年続けている人は多いのではないだろうか。勿論、他人の評価を受けることで、精神的経済的報酬を受けることも十分あり得る。しかし、たといそれがなくとも続けることができるのが「趣味」である。そのような意味に限って言えば、信仰が「趣味に過ぎない」というのは、言い得て妙である。キリストへの信仰は、誰かに強制されるものではなく、完全に個人の選択によるものであり、経済的報酬など必要とせず、精神的「御利益」などなくても、「キリストが神である」ということを知るだけで十分過ぎるほど十分だからである。

 「キリスト教は御利益がないからありがたい」と言った信仰者のことを読んだことがある。十字架につけられたキリストの霊によって、「キリストが全てである」ことを体験したものだけが言える言葉である。